このサイトは潰瘍性大腸炎とクローン病の患者会の全国組織である、NPO法人IBDネットワークがNPO法人健康と病いの語りディペックスジャパンの許可を得て作成したものです
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
xx先生が、何代目かの(研究班の)班長をされましたけれど、その先生が難病といっても潰瘍性大腸炎はそんなに特殊でなくて、要は生活習慣病だとおっしゃっております。どんな病気でも完全に治るということは無いんだから、一応普通の生活が、日常生活が送れればいいというふうに、割り切って対応したらいい、ということがどこかで発表されているのを見まして、それはいいなと思って私もその説に賛成してるというか。患者会で色々相談に乗ったりしていても、「完全に治らないと」という思いの人が結構多いんですね。ですから1日に4-5回ちょっと下痢があるというようなことがあっても、「日常生活ができると、何とかできる」ということであればいいんだと思いなさい、ということでお話をしているんですけど。みな完璧な健康体にというような思いを持つ方が多いんですけれど、そういう必要はないんじゃないかなと思いますね。
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
Q.今、テニスとかされているというお話なんですけれど、ご病気で調子悪い時もやっておられたんですか。
A.そうです ね。テニスを本格的に始めたのは横浜に住んでからですので、約40年になりますけど、週2回くらいは必ず行くようにしておりました。私のストレス解消法ということで、仕事の面だとかいろんなことで精神的に疲れている時でも、1時間か2時間コートで汗を流すとスカットするということがありましたね。人間生活する上ではストレスというのは避けられないものですから、ですから精神的なストレスと、肉体的なストレスのバランスを取るというのがよかったのかなと思っています。後は呼吸法じゃないんですけれど、腹式呼吸というのが非常にいいということなので80の手習いということで、地域の方々と語り合ってコーラスクラブを、混声合唱団を作りまして、最初私一人で、男は私一人だけだったんですけれど、今は男性が9名と女性が24名ですか、33名の混声合唱団ができておりまして、緑区の芸術祭と称して毎年秋にはそこに参加したりしております。そういうことで、これは月2回2時間づつのレッスンというか先生に教わるんですけれど、要するにお腹から声を出すということで腹式呼吸というのが健康に非常にいいんではないかと。私は若い時から詩吟が好きだったものですから、詩吟もお腹から声を出すということがあったもんですから、比較的楽に入れましたけれど、今は一応テナーということで仲間と一緒にやっております。
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
Q.今奥様 の話がちょっとでましたけれども、病気になった時に奥様がどういうふうに対応してくれたとか、あるいはお子様との関係とかそのへんはなにかありますか。
A.そうですね、やはり家内は一生懸命対応してくれて、薬をお尻から入れるなんかにしても、最初はなかなか一人ではできないし、薬を、注腸薬剤を温めて適温にしてとか、その前にステロイドの注腸は昔はステロイドの塊をもらったやつを自分で砕いて粉にしてそれで注入してたんですね。それを一生懸命やってくれたりしましたですね。それから、かながわコロンに入会のきっかけというのは娘が丁度朝日新聞だったですか、広告を見つけてくれて、こういうのがあるよということで、かながわコロンを知ったということです。家族の支えというのは非常にありがたかったですね。
Q.じゃあ、その病気をしたことでなにか夫婦関係あるいは親子関係に悪影響がでたことはなかったですか。
A.逆みたいですね。いい影響というか、私も昔人間であんまり直接家内には感謝めいたことも言いませんけれど、むしろいい影響があったように思います。
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
Q.患者会に 入会される方ってたくさん色んな方がおられると思うんですけれど、患者本人ではなくてご家族の方が会員になっている方も多くいらっしゃいますよね。特に若い男性の場合ですね、母親が患者会に入っておられるという方が結構多いと思うんですけれど、そのへんで何か親御さん、患者の親御さんの対応というのはなにか感じられたことがありますか。
A.私自身の話なんですけれど、一時は家内がやっきになって一緒についてきてくれて、診察室にも一緒に入って、先生との受け答えがこの私が言う前に家内が言うようなことがあって、先生が「奥さんは診察室から出てください」みたいなこともありましたけれど、よくその主治医はそういう例を挙げておられましたけれど、何ですかね、そういうのは一番望ましくないということで、患者本人が自分の思いを先生と話すと、話し合うということが必要なんだということを言われましたね。
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
Q.病気になられて患者会「かながわコロン」に入ってその後、会長を長くされたということなんですけれど、患者会の運営とかですねやってきて、よかったこと、大変だったこと、いろいろあると思うんですけれど、そのへんのお話をちょっと聞かせていただけますか。
A.私自身がそうだったんですけれど最初にかながわコロンに入会した当時は、当時の事務局の方に毎晩のように、毎回同じようなことを質問して助けられたんですけれど、私が会長になって自分の自宅が事務所替わりになって、専用の電話があったんですけれど、本当に毎晩のように同じ人から、またあくる日朝から夜からという繰り返しでいつも同じことを答えるような感じだったんですけれど、そういうことがありましたね。それから嫌になるようなこともありましたが、後で非常に感謝されて「助かりました」と言う事を言われてうれしかったというか、そういうことでしたね。
Q.そのほかには何かやっていて楽しかったとかそういうようなことってありますか。
A.結局人のお世話をするということは自分のためにもなるんで、よく役員同士でも話してたんですが、役員になると非常にメリットがあるなと、みんなの話が聞けるし、それに対して役員の中で突っ込んだ話ができるし、役員になるといいね、みたいな話をしたことがあります。
診断時60歳、インタビュー時89歳(2017年1月)男性 関東地方在住 発病から10年くらいは大変だったが、主治医の治療方針で、入院も手術もせず仕事を続けながら内科治療だけで寛解に至り、現在では完治したと思っている。現在は家内と二人暮らし。
それから肛門 科のほうではやはりある程度食事の制限なんかも言われたんですけれど、横浜市大のほうでは潰瘍性大腸炎に関しては、食事の制限というのは原則として無いんですということで、サプリメントとかそういったものに惑わされないでなるべく普通の食事から栄養を取って、ただでさえ出血とかあるわけだから普通の人以上に栄養をきちっと取らなきゃいけないということで、ほとんどいわゆる食事制限というのは無しできたというのが現在の私の寛解を維持して、もう私自分ではもう完治していると思っておりますし、現在の私があるものと思っています。
Q.食事は制 限はないよとお医者さんに言われてなんでも召し上がってたということなんですけれど、これを食べると調子悪いとか、調子が逆に良くなるとか、そういったような食べ物とかは特にありましたか。
A.そうですね、あんまりなかったですね。先生はとにかく調子さえよければ、なんでもいいですよということで、カキフライなんてものは私が好きだったので、「カキフライどうですか」って言ったら、「食べてみてだめなら止めればいいし、調子のいい時は美味しいと思ったら食べていいよ」と、あるいはアルコールに関しても多少出血している時でも、私はテニスをやっていたんですけれど、帰ってきてシャワーを浴びてビールが美味しいというんであれば飲んでもいいですよというようなことを先生は言ってくださって、そういうことがいわゆるその病気からくるストレスがなかったというか、そういう点では助かったんじゃないかと思っています。
九州地方在住。10年前、19歳で大学浪人している時に発症し、なかなか診断がつかず大変な思いをして大学に入学。その後就職してからは寛解状態が続いていたが2014年の1月に再燃し、現在は食事も制限しているが、前向きに生きている。独身で一人暮らし。
Q:はい。今病気のことについてお話しいただいたんですけども、直接その病気のことではなくても病気をしたあとで、してから何か人生観が変わったというかそういうようなことって何かありますか。
私がこの病気になってから、やっぱり自分には難病の方っていうのは全く無関係な生活をしていましたので、実際自分がなってみるとまだ調子いいときは健常人と同じように生活できる、ただ調子悪かったら同じように生活できないというふうなことの病気なんですけど、やっぱり難病、ほかの難病いっぱいありますので、そういう方も今の社会で不安とかストレスとかと戦いながら前向きに生きているということを難病になってから知るようになって、それで人生観というかやっぱりこういう病気でもがんばらんといけないなというふうに強く思いました。
九州地方在住。10年前、19歳で大学浪人している時に発症し、なかなか診断がつかず大変な思いをして大学に入学。その後就職してからは寛解状態が続いていたが2014年の1月に再燃し、現在は食事も制限しているが、前向きに生きている。独身で一人暮らし。
Q:トイレの回数とかでですね、仕事中急にトイレ行きたくなったりとかいうようなことで、仕事に影響があるとかそういうことはありませんか。
今は活動期で、少し調子が悪くて、朝がやっぱりひどくて、今6~7回どうしてもトイレに駆け込んでしまうことがありまして、で、朝を過ぎて業務時間が始まってから夕方までにやっぱり調子が悪くて、1~2回ほどなんですけど行ってしまうことがあるんですけど、それは上司の人がいつでもトイレに行っていいよというふうに理解がありまして、それは大きな支障にはなっていないと思います。
Q:そういう上司の方の理解があるということはすごく助かると思うんですけども、一般的な仕事の中でやっぱりこの病気を持っていることによって、いろんな支障っていうか障害っていうのはありそうだなっていうふうに思われますか。
やはりこの病気というのは、見た目はほぼ健常人と変わらないということがすごいやっかいって言えばおかしいですけど問題で、調子が良いときはほんとに健常人と変わらない生活ができるんですけど、調子が悪いときがどうしてもトイレに行って、お腹は調子が悪いということがありますので、例えば仕事に関してもトイレにいけないような仕事もいっぱいあると思うんですけど、そういうときは例えばどうしてもその仕事をするしかないというのであれば、おむつとかをしたり、動き回るのは例えばお腹に刺激があるので良くないとすれば、例えばもう腹巻きとか体を温める、外での寒い仕事とかはホッカイロとかで体を温めるというふうに何かこう自分らしい対策を考えないとやっぱりどうしても悪くなってしまう病気なので、そういう面で、同じような健常人と仕事ができるということに関してはある程度難しいんじゃないかなと思うんですけど、やっぱりこう、自分が気をつけながら上司とこういう病気ですというふうに相談しながらすれば、できない仕事もあると思うんですけど、ある程度はできる仕事が増えるんじゃないかなというふうに思います。
九州地方在住。10年前、19歳で大学浪人している時に発症し、なかなか診断がつかず大変な思いをして大学に入学。その後就職してからは寛解状態が続いていたが2014年の1月に再燃し、現在は食事も制限しているが、前向きに生きている。独身で一人暮らし。
将来結婚なんですが、今やはりそういうこと考えていまして、大阪とか京都に長い期間いましたので、それが終わってこっち戻って来てから考えようって思ってまして、今本当にそういう時期になってきたんですが、やっぱり国の難病の指定の病気だということを相手に伝えるか伝えないかなんですが、それはもう絶対に伝えないと相手の家族とか相手を巻きこむことなので、それはもう絶対に伝えるようにしようと思うんですが、やっぱりそれを認めてくれる方っていうのはやっぱりそんなにいないんじゃないかと思うんですが、やっぱり病気のことを認めてくれてその上で結婚してくれる方を今探してて、それは今紹介とか親も協力してくれてそういうことを行動しているんですけど、やっぱりそうですね。難病とかを受け入れてくれる女性と結婚したいと今考えております。
Q:将来結婚して子供を作るとかいうときに、この病気がそういうことに影響するかどうかというようなことについてはお医者さんは何かおっしゃってますか。
将来結婚するって、もし子供を育てるということに関しては主治医とかに相談したことは今までないんですが、一応本とかを読む限りは、一応ペンタサとかをずっと飲んでいたんですが、そこまで影響はないというふうに書かれていますので、あまりそこまでは心配はしていないんですが、イムランとか免疫抑制剤とかは治療としてありますので、それを飲むと多少影響あるというふうには読んだ、本に書かれていたんですが、私の今飲んでいる薬で影響は出ないんじゃないかと思っているんですけど、それに関しては影響が出るから子供を育てるのはやめるとかいうふうには考えたことはなくて、それでももし子供ができたら授かった命なので大切に育てていこうとは思っています。
九州地方在住。10年前、19歳で大学浪人している時に発症し、なかなか診断がつかず大変な思いをして大学に入学。その後就職してからは寛解状態が続いていたが2014年の1月に再燃し、現在は食事も制限しているが、前向きに生きている。独身で一人暮らし。
Q:最初に診断されたのが19歳ぐらいということで、ご家族、お母さんは当然ショックを受けられたと思うんですけども、そのあとお母さんがどういうふうにあなたに接してくれたとか、逆にお母さんに対して、逆に気を遣ったこととかですね、そういう家族との関係と言うんですかね、お話しできる範囲で結構ですのでもしあればお話しいただけますか。
私がこの病気になったのは19歳のときなんですが、そのときに母はやっぱりショックを受けていまして、やっぱり国の難病ということで大変な病気にかかってしまったということがやっぱり母の気持ちにはあったらしくて、で、初めはこの難病は国に申請すれば医療費とかがある程度、かなり負担してもらえるということなんですけど、やっぱり自分が難病であるということを認めてしまうのでそれは母親とか父親、親にとってはすごいショックだったらしくて、初めは難病じゃない、認めなくていいんじゃないかという考えがあって、初めは特定疾患の申請はしておりませんでした。
やっぱり難病って認めてしまうと就職とか結婚とか今後の人生においてすごい影響が出るんじゃないかということを本当に心配していましたので、入院費とかも3割負担で初めはしていました。ただ、僕以外にも難病のこういう方がかなりいっぱいいると。で、かなり元気に生き生きと前向きに生活しているということも、母と僕もそうなんですけどこれから知ったので、やっぱり難病でもそういうことを自分に受け入れて、それで前向きに生きていくのが一番いいんじゃないかということを母と父とは話したんで、それから特定疾患の申請をして、自分が難病だというふうに国に認めてもらって医療費とか薬とかも補助していただけるふうにしていただきました。
診断時28歳、インタビュー時51歳(2012年7月)九州地方在住。寛解と再燃を繰り返しながら、3回の入院を含め長年にわたる内科治療をしている。潰瘍性大腸炎そのものでは、発病したときは全大腸炎型でかなり重症だったが、その後はそれほど重症になったことはない。しかし合併症としての関節炎や免疫抑制剤の副作用としての歯周炎などがひどい。職業は獣医師。独身。
患者会っていうのはまあ、知ってたんですけど行くところはほとんどなかったんですけれど、今回まあ初めて見つかったんで入ったっていうのがきっかけですね。意外と昔は患者会っていうのはなかったんです。患者会に入ったのはやっぱり情報とかあとはさっきもありましたけど、特定疾患っていう制度があって、そういうのでの情報があって入ったのがきっかけですね。
Q:患者会に入られて、これは良かったなと思われたことはありますか。
患者会に入ってよかったなっていうのはみんなの顔を見られる、病人の顔を見られる、同じ病気の人の顔を見られるっていうことで、ただまあ一つは、どう言ったらいいのかわかんないけど表に出てこれない人もいるだろうなっていうのがあったので、だからまあ、出てこれてなんか言い合えるだけでもいいのかな。後やっぱりもう一つは、福祉的な問題でやっぱり声を上げないと変わって行かないだろうから、やっぱり数の力というか声を集めるっていうのも大事なんじゃないかなと思って、それで患者会に入ったというのもあります。
Q:たとえばどういったところで声を出していく必要があるって思われていますか。
難病って言うのは原因がわからなくて難しい病気だっていうことで、病気に対してですけど、特定疾患っていうと保健とか福祉的な問題があるから、今までの特定疾患の補助みたいのを切られるっていうのがありましたよね。そういう時に声をあげたからなんとか予算がついて助かってるっていうのがあると思うんで、だからそういう意味で少しでもマイナーな、メジャーでないマイナーなものの声を上げるという意味ではやっぱり数が必要だし、声を上げていくっていうのは大事なんじゃないかなっていうのはありますし、実際そういう活動もしているからいいんじゃないかなと思います。
診断時28歳、インタビュー時51歳(2012年7月)九州地方在住。寛解と再燃を繰り返しながら、3回の入院を含め長年にわたる内科治療をしている。潰瘍性大腸炎そのものでは、発病したときは全大腸炎型でかなり重症だったが、その後はそれほど重症になったことはない。しかし合併症としての関節炎や免疫抑制剤の副作用としての歯周炎などがひどい。職業は獣医師。独身。
仕事自体は獣医師で小動物で犬猫をやってるんで、それ自体は変わらないんですけれど、ま入院をして、入院が大体1ヶ月ですね入院すると、そうすると動物病院は個人経営なので、結局その間人が足らなくなるので辞めなきゃいけないっていうか、相手に迷惑にもなるので、入院したら辞めるっていう形でしたね。ま向こうも色々言ってくれるっていうのはあったんですけど、でもやっぱりどっちも辛いと思うんで辞める方が楽かなと思いましたね。
Q:3回の入院とも仕事を一旦辞めるっていう形を取られたんですね。
ですね。で、辞めた後はしばらくは働いてないんで、その間アルバイトとかっていうのもしたりしました。その時はどうしたらいいんだろうって思ったけど、若い時、その頃働き口があったんで、アルバイトなりなんかして何とか生きていけはしましたけどね。あとは、次のオファーがあって来てくれないかっていうのがあったので気が楽だったっていうのはありますね。
あともう一つ面白いのは、アルバイトをしててトラックの運ちゃんをやってた時が有るんですが、その時は夕方荷を積んで、夜中走って朝帰ってくるんですけど、その時肉体労働なので汗をかくんですよ。冬場だったんで、丁度冬場だし、あとは冷蔵庫、マイナス20度の冷蔵庫とか入ってて、その中でも汗をかいてた時が一番体調がよかったですね。だから、やっぱり労働と言うより運動の方が病気に対してはいいんじゃないでしょうか。面白いですね。
診断時28歳、インタビュー時51歳(2012年7月)九州地方在住。寛解と再燃を繰り返しながら、3回の入院を含め長年にわたる内科治療をしている。潰瘍性大腸炎そのものでは、発病したときは全大腸炎型でかなり重症だったが、その後はそれほど重症になったことはない。しかし合併症としての関節炎や免疫抑制剤の副作用としての歯周炎などがひどい。職業は獣医師。独身。
Q:話代わりますけど、失礼ですがご結婚は。
していないです。
Q:それは病気とは関係ないですか。
病気も関係はありますね。したって大変だというのはわかってますから。別にしちゃいけないってわけじゃないけど、自分の体調がわからないから、結婚しても、例えば社会的仕事で予定いれても体調悪くてもそれをこなさないといけないけど、じゃあ私的なもので体調悪い時に動きたくなかったら、動きたくないじゃないですか。私のことかまってくれないとか、なんで家のことやってくれないのとか。それはだから医者って結構病気の知識はあっても理解はしないわけであって、それを一般の人が理解しろっていうのは難しいです。知ってることと理解することは違いますものね。感じれるっていうのは、理解っていうとあれだけど、感じて気遣いができるかっていうこと。仕事だから我慢してできるけど、じゃあ家に帰ってきたらしたくないですものね。相手のことまで考えてやってられないですものね。
Q:失礼な質問ですけど、お付き合いをして結婚を考えたことって今までに・・
ないです。今はあれですけど、若い時はそれなりにアタックは受けたけれど、自分で納得してるから全部断ってますけどね。断るっていうとあれだけど、そんな風に行かないようにもってってます。面倒くさいから。別に結婚しちゃ悪いってことじゃないですけど、結婚しても難しいだろうっていう。
Q:難しいです。本音。
健常者だって難しいのに、病人だったら調子悪い時でも家族の為にやらなきゃいけないことも有るし、つらい時わかってくれって言ってもわかんないでしょう。でも別に結婚できない訳じゃないしやろうと思えばできるけど、やっぱりいろいろな面できびしいんでね。フォローがないと難しいですよ。後は職業的に時間がとられるっていうのがありますよね。大企業で勤め人で時間が取れたらちょっと違うかもしれないですけどね。仕事上やっぱり、仕事しないと食っていけないし、仕事がかなりウィエイト占めるから、結婚は難しいなと思いますね。仕事が終わったら殆どグロッキーですもんね
診断時28歳、インタビュー時51歳(2012年7月)九州地方在住。寛解と再燃を繰り返しながら、3回の入院を含め長年にわたる内科治療をしている。潰瘍性大腸炎そのものでは、発病したときは全大腸炎型でかなり重症だったが、その後はそれほど重症になったことはない。しかし合併症としての関節炎や免疫抑制剤の副作用としての歯周炎などがひどい。職業は獣医師。独身。
食べ物では確かに気を遣い、体調が悪い時は気を使いますけど、良かったら、普通よくないって言われているラーメンとかカレーでもケーキでもバターでもなんでも食べます。但し、間隔は慣れてくると置くようにはしてますね。そうすれば制限もなく楽しく生活できますね。
Q:今は調子が悪い時だけ食事を気を付けられて普段はそんなに制限がない生活っていう感じで過ごしていらっしゃる。
そうですね、今は殆ど食べ物で、ただ油ものは少なくするようにっていうのは気を付けていますけど、ひどい時には1年間本当に納豆、豆乳、豆腐、それだけで過ごしたことも有ります。その時は体調よかったですよね。だから食べ物の制限は確かに効くんだけど若い人にそれは無理ですもんね。
診断時、31歳 インタビュー時歳49歳(2012年7月)九州在住。行政の嘱託員。発病は31歳の時。大腸検査でふさがっているところがあり、32歳で始めての手術。約10年後に再発2回目の手術。翌年に入って3回目の手術で大腸を全摘した。一時(3ヶ月)ストーマをつけたが、現在はクローズド(閉じている)。家族は母、妻、犬4匹、猫1匹。
本来であれば健康でありたいというのが一番なんですけど、これはどうしようもないし、もうないものはないので、これはもうしっかり受け止めて。じゃあ今のこの体をどう生かして、自分をどう生かしていくかというのは自分の気持ち次第なので。健常の方がやれることとはまた違う方法とか、違うやり方とか、色んな方面に力はだせるのではないかなあと、ものすごく前向きな考え方を持てるようになりました。
診断時、31歳 インタビュー時歳49歳(2012年7月)九州在住。行政の嘱託員。発病は31歳の時。大腸検査でふさがっているところがあり、32歳で始めての手術。約10年後に再発2回目の手術。翌年に入って3回目の手術で大腸を全摘した。一時(3ヶ月)ストーマをつけたが、現在はクローズド(閉じている)。家族は母、妻、犬4匹、猫1匹。
最初、手術をした時の仕事のところはですね、手術してすぐくらいは「大丈夫か」ってことであったんですけども、最終的には自己管理だぞ、ということで一切の配慮はなかったです。ただし、自分で管理してくれということで。勿論なんですけども、ただ、あの色々役職的な仕事が付いてきたりとか、責任がついてきたりとかすると、ストレスも溜まりやすくなって、なかなかこれは難しいなと。小さい会社だったのでなかなか逃れることもできなくなってくることも多くてですね、ストレスからも逃れることができなくなってくることだったので、このままだと自分の身がもたない、精神的に身が持たないなということで、そのとこは退職させていただくっていうか、辞めたんです。
その後転職という形でやってるんですけど、現状は、今も自己管理ではあるんですが、わりと自由というか、許可を得ればすぐに対応していただける。入退院も何回かしているんですけども、それも支援というか配慮をしていただいているっていうところなんで、気兼ねがないというとおかしいですけども、安心して手術、入院とかもできています。
診断時、31歳 インタビュー時歳49歳(2012年7月)九州在住。行政の嘱託員。発病は31歳の時。大腸検査でふさがっているところがあり、32歳で始めての手術。約10年後に再発2回目の手術。翌年に入って3回目の手術で大腸を全摘した。一時(3ヶ月)ストーマをつけたが、現在はクローズド(閉じている)。家族は母、妻、犬4匹、猫1匹。
どうゆう病気だなというのは理解は、妻の方はして今後これに対処していくんだなあというふうに思ったみたいです。で、私の方は、本の情報であったりとか病院の先生から話を聞いたりとかして少しづつ理解を深めていったという感じです。家族は、母親はいるんですけど、全然そういう意味がわからないので特別説明もしておりませんし、難しい病気なんだということを今言っても全然わからないということもあるので、母親の方は最近認知症ってこともでてきたので、逆にこっちが気を使ってやっているということで、母親の方はもう全然僕の病気に関しては熟知してはおりません。
Q:奥様の方はよく理解されているということなんですけれど、奥様は病気のことに関してどんなサポートをしていただいているのでしょうか。
サポートは、特にですね最初の病気をしたときからの約10年間近くというのは、やっぱり食事面のとこを気にしてですね、食べちゃいけないものというのが、こういうの、こういうのとありましたので、そういうのをできるだけ最初から避けた形で準備、食材の買い付けとか考えてやってましたね。私の方も一応こういうの危ないなと思うのは、最初から避けて、外食するにしても、例えば定食とかにしても、これは食べたら危ないなと思ったら全部妻の方に渡して、妻の方で僕の方が食べられそうなものをもらったりして、で色々調節しながら、お互いの協力してくれたのですごく最初の期間というのは大分助かったと思います。その後はある程度自分で管理できるというか、わかっているので、えー妻の方は特別は口を出さなくても自分で管理できるような形にしてますので。今は、たまに声をかけてれるくらいですかね。「だいじょうぶ」ってことで。その程度ですね、今は。
診断時、31歳 インタビュー時歳49歳(2012年7月)九州在住。行政の嘱託員。発病は31歳の時。大腸検査でふさがっているところがあり、32歳で始めての手術。約10年後に再発2回目の手術。翌年に入って3回目の手術で大腸を全摘した。一時(3ヶ月)ストーマをつけたが、現在はクローズド(閉じている)。家族は母、妻、犬4匹、猫1匹。
食生活で言いますと、まあ仕事を私やっていますけども月曜から金曜までの仕事の日というのは朝・昼・晩、経口の補助食品のみか、パン1枚とか卵1個を食べる、1日ですね、くらいですね。1日1500キロカロリーくらいで済ませています。で土日だけ、土日のお昼だけ解禁日にして、普通の食事を取る、でないと夜の排便で苦しむんですよ。痛みとか、何回もトイレに起きたりとか、基本的には2時間に1回はトイレに行かないといけないという状況なので。平日はなるべくトイレの回数が増えないようにという対策で、そういう過ごしたかたをすることによって日常生活が維持できるかなと、維持できる方法を自分でさがしてやっています。
本当は私の直属の上司は仕事に戻らない方がいいと思ってたみたいなんですね。主治医から病名を言われた時に最初に言われたのが、看護師は無理だって言われたんですね。もうデスクワークの仕事を探したほういいって言われたんですけども、でも私自身入院をしてみて、それまで自分が看護師として働いてたのが、全然患者さんの気持ち私わかっていなかったんだというのがすごく思って、それでこう私の強い希望で仕事に戻ったんですね、周りからは、だから反対されて戻ったような感じだったんですけども、でも職場はすごく理解していただいて、私は1名余分の人員で外来配置して頂いて、夜勤とかも免除して頂いて仕事はしていたんですけれど、それでも半年して再発をしました。
Q:その後お仕事は続けられたんですか。
大学病院にその時勤めていたんですけれども、結婚を機に退職したんですね。丁度その退職をするときに地元に結婚して戻ったんですけど、そのとき地元の個人病院の方から来てほしいっていうふうに言われたんで、そちらの方に就職したんです。でも最初からそこはもう、丁度当時は看護師が、今もなんですけど、看護師不足で、病気があるって話しても、それでもいいから来てほしいっていうことで、最初から病気のことを話せたので、無理がいかないようにっていうところでとても配慮していただけました。それでもう本当に慢性的だったんですね、症状が本当に慢性的で、調子が、寛解期が全然ないような感じで過ごしてたんで、途中から看護師の仕事が難しくなったんで、看護部長の部屋で事務仕事をしたりとかですね、そういうデスクワーク中心の仕事をかなり長い期間やってました。
Q:でまあ、無事に出産されたと思うんですけれど、その妊娠してから出産までの間というのは薬はどうされてたんですか。
話は前後するんですけれど、私27歳の時にステロイドの副作用で、両足大腿骨骨頭壊死を起こしているんですね。それがあったんで、ステロイド剤はもう経口では使えないっていうことになって、ステロイド剤を飲む方は切って行って、お尻から入れる注腸か座薬のほうに切り替えてたんですね。なので使ってたのは多分、妊娠してからはプレドニンの座薬と、あと当時はサラゾピリンを経口で飲んでたと思います。
Q:それはその妊娠とか、胎児に対する影響とかは心配ない薬なんですか。
プレドニンに関しては、経口で飲んでたわけじゃないんですけど、座薬なり注腸の形ではずーと使ってたんで、私自身はちょっと心配があったんですけれども、当時内科の先生と産科の先生と両方から、この薬で子供に異常が出たことは今まで一度もないから心配しなくていいと何度も繰り返し、言っていただきました。
25で結婚しまして、なかなか子供ができなかったんですね。ずっと体調も悪く、1年中下血して、下痢をしてお腹が痛くて、それが程度が軽いか重いかだけの違いで、ずっと調子が悪かったんで、それで子供がずっとできなくて、29の時に一度流産をしているんですね。その時ものすごく精神的に参ってしまって、でもう私は幸せになれないんだってその時は本当に、普通の人の幸せは私にはもう来ないんだっていうふうに、その時は本当に精神的に参ってしまって、でそのさなかに次の、今の娘を妊娠したんですね。
なので、うれしいよりは怖くてですね、今度この子を無くしたら私は生きていけないって思って、そっちの恐怖心の方がすごく大きかったのを覚えています。で、妊娠中にも体調を崩してですね、丁度つわりの時期に本当にもどしているときに調子を崩して、もどして下痢をするもんだからものすごく体重が落ちてしまってですね、主治医がすごい心配をして、赤ちゃんに栄養が行かなくなるんじゃないかって心配をして、入院しなさいって言われて、その時はそうですね40日くらいですかね、1カ月ちょっと入院したと思います。でなんとか体調が良くなって、つわりが良くなると同時に体調が安定し出したんです。
それで妊娠中は、その後は体調的には安定した時期が続きました。ただ、お腹の子供にちょっと異常があるんじゃないかって言われていて、私はそれまでの病気が治療がうまくいかなかったりとか、何かをしようと思うと病気が悪くなったりとか、その繰り返しだったので、またかと思ったんです。またかと思って、子供に何かあると言われてまたかと思って、本当に生まれるが生まれるまで、うれしいとか楽しみだとかそういう気持ちになれなくて、ただ子供に何かあるんじゃないかと、不幸が襲うんじゃないかと、そういうことばかり考えていたような気がします。
丁度婚約、結納の1ヶ月後がその緊急入院だったんですね。発症して緊急入院だったんで、本当に発症のときからすでに付き合って、夫とは付き合っていましたんで、本当私はなまじ看護師だったんで、診断がついたときに、最初に夫に、まだ結婚する前だったんですけれど、夫に言ったのが、「結婚を止めるなら今だよ」って言ったんですね。もうこれ治らない病気だし、入退院を繰り返すから止めるなら今だよって言ったんですけど、それでも結婚したいっていうことで、23で発病して25で結婚しました。
1ヶ月半、2ヶ月くらいだったかな入院したんで、娘が生まれて初めての入院だったんで、娘のこともすごく心配しました。私がいない間娘の方はいい子だったみたいで、周りに全然心配かけないでいい子だったみたいなんですけれど、退院して帰ってくると、夜は私の布団に入ってきてですね、首にしがみついて寝るんですね。毎晩毎晩私にしがみついて寝て、多分さみしかったのを取り戻してたんだろうと思うんですけど。入院期間の倍くらいそういうのが続きました。その後入院した時もそうだったんですけど、2か月入院すると4カ月、1ヶ月半入院すると3カ月くらいそうやって娘が首にしがみついて寝るっていうことがありましたね。
そうやって、その治療を外来でしてて、娘とも一緒にお風呂に入るんですね、娘もそういうのを見るわけですね。・・「私も大きくなったらそんなふうにお腹に薬を入れるのって」聞いたりとかしたりしてましたね。だからそこらへんの子供に分かる言葉で説明するのが結構難しかったりはしたんですけど、娘は割と早くこう、私の体がそんなふうになってるっていうのはそんなにびっくりもしなくて受け入れたように覚えています。
夫はですね、最初に発病した時は結構前だったんですけども、入院が長期になって、夫自身も胃潰瘍と十二指腸潰瘍になったんですね。夫自身も胃と十二指腸の両方に穴が開いたらしくて治療を受けながらずっとお見舞いに来てくれてました。二十代のときはずっとプレドニンの副作用で、もうずーとムーンフェイスだったんですね、それで鏡見ては泣いてたんですけど、二十代の時はすごく励ましてくれてましたね。三十過ぎるとですね、夫も、繰り返し繰り返しだからですね、子供が生まれた後の再発は特にその私が長期に入院すると子供の世話まで加わってくるので、多分困ったと思うんですけど、夫自身多分すごくきつかったんじゃないかなと思います。私に対しても結構冷たくなったりとかも、結構ひどいこと言われたりとかもしたんですけど、今思うと夫もいっぱいいっぱいだったんだろうなと思ってます。
娘が生まれてから後体調が落ち着いたんですね。丁度8年くらい落ち着いたんですよ。でさっき言ったように娘が生まれつき腎臓に問題が、異常があって、病院にかからなきゃいけなかったんで、定期検査に通わなけりゃいけなかったんで、それが娘で結構大変だったんですね、病院の通院とかで、育児もすごく癇の強い赤ちゃんで、ものすごく激しい声で泣く癇癪持ちの子だったのでとっても育児も大変だったんですけど、不思議と一番手のかかる8年間が病気自体が落ち着いてたんで、本当に今考えても神様にもらった時間みたいに、本当に子供を育てるために神様にもらった時間だったなあっていうふうに思っています。
診断時32歳、インタビュー時42歳(2016年5月)女性 関東地方在住 内科治療をひと通り行ったが改善せず、手術をするなら今しかないと思い手術を決断した。術後は良好。ご主人と小学生の子供と三人家族。
そうですね、まず潰瘍性大腸炎っていうふうに診断された時に、自分は、軽かったのでその病気についてあまり調べなかったというのがあって、お医者さんも、当時のお医者さんですけど、軽かったから、そんなに深刻に言うと多分真剣に考えちゃうからだと思うんですけど、おっしゃってもらえなかったので、あの時に、なんだろうな、ちゃんと病気について理解しておけば、坂道を転がるように悪くなることはなかったんじゃないかなって思っていて。だからもし診断されたら軽かろうが重かろうが、基本的には自分の病気のことを自分でお勉強するのが大事かなと思います。だからといっていろんなことを諦めるんじゃなくて、基本的には前向きな気持ちは残したほうがいいんじゃないかなっていうのが自分の経験上の言えることかなと思います。
なんか、先生たち、お医者さんからいろいろ言われた言葉で残っているのが「やっかいな病気になっちゃったね」とか「この病気は長く患うと自信とかを無くさせてしまう病気だからね」とか、そういうことを言われてどんどん落ち込んじゃったりするんですけど、そうじゃなくて、なんていうんですかね、今を一生懸命生きるっていうのが一番大事なんじゃないかなって、今自分の出来る範囲内ですけど、で自分のやりたいことを探すっていうかそれが大事なんじゃないかなって思いました。
診断時32歳、インタビュー時42歳(2016年5月)女性 関東地方在住 内科治療をひと通り行ったが改善せず、手術をするなら今しかないと思い手術を決断した。術後は良好。ご主人と小学生の子供と三人家族。
Q:お子さんがいらっしゃるということで出産をされたんですけれど、出産されたときは寛解状態の時に出産されたということであんまり病気の影響はなかったということですか。
寛解だったんですけれど妊娠して少しやはり悪くなったんですけれども、重症までは全然いってなくてまだ軽症とか中等症とかのレベルでそれも直腸型だったと思いますので、そんなに出産の時にだからといって食事制限をするとか、出歩かないとか、そういったことはなかったですね。なので薬も先生曰く、ペンタサっていう薬は出産には影響がないっていうふうに聞いてたので途中まで飲んでて、でもちょっと心配だったのでそんなに重くなかったからペンタサを自己判断でやめてましたね。
Q:出産後ですね、体調が変化したってことも特になかったですか。
出産後は、そうですね出産後は出産前よりも良くなりましたね。そんなに潰瘍性大腸炎で悩んだということはなくて、むしろ仕事も休んでいるし向かう相手は自分の生まれた子供しかいなくて、核家族なので特に子供のことだけやってればいいみたいな感じがあったのでむしろ穏やかな生活を繰り広げていました。
診断時32歳、インタビュー時42歳(2016年5月)女性 関東地方在住 内科治療をひと通り行ったが改善せず、手術をするなら今しかないと思い手術を決断した。術後は良好。ご主人と小学生の子供と三人家族。
Q:あとご主人が非常に協力的でいろいろやってくれたというお話なんですけど、その病気のことについて、手術を決断したときなど特にそうだと思うんですけど、どういうようなお話をされました。
まず病気に関しては、自分がこんなふうになって申し訳ないっていう、良心の呵責っていうんですかね、なんかこう自分の中にあったのは事実で、なにも勿論できなくなってくるし、ただ、彼はそこらへんは淡々としていて「なったものはしょうがないじゃない」っていう一言を受けて、内科入院して彼の多分目標の一つに毎日見舞いに行くみたいなのが多分その時あって見舞いにだけは結構来てくれて、なので・・一度「こんな弱いお嫁さんいらないよね」って聞いたことがあって、そしたら「そんなこと思ってないよ」って言われて、「あなたはこどものお母さんでしょ」っていわれて「いらない家族はいないよ」って言われたのがちょっとこうジーンってきたのがありまして。
あとは大腸手術するっていう話になったときも、周りが騒いでいるほど本人はあんまり騒いでなくてそれは今、今後こう自分の家を運営して行くじゃないですけど、「今大腸の手術って必要なことだよね」って言われて、「それに伴って失うものもあるとは思うけれどタイミングは今だよね」って言われたので、一緒に多分「どうしよう、どうしよう」ってなってたら大変悩んで決断できなかったと思うんですけど、そこは彼が結構あっさりポジティブに言ってくれたので決めれたところかなと思いました。
診断時32歳、インタビュー時42歳(2016年5月)女性 関東地方在住 内科治療をひと通り行ったが改善せず、手術をするなら今しかないと思い手術を決断した。術後は良好。ご主人と小学生の子供と三人家族。
潰瘍性大腸炎が悪化してくると貧血もひどくなって、常にだるい状態で、帰ってくると本当にすぐにでもベッドで横になりたいという状況だったので、子供もまだその頃保育園に行って小さかったので毎日の食事を作る、それがもうとにかく苦痛で。あとは土日に自分はどこにも連れて行ってやれない。その分主人が連れてってはくれるんですけれど、なんか良心の呵責っていうか常になにもかまってやれてない自分、みたいな、そういう罪悪感みたいなのは正直あったんですけど。ただ、娘も毎日そういう私の生活を見ているのでわがままはあんまり言わなかったし、保育園で3歳の時に初めて、よく洗濯物とかをするんですけど、干して乾いたものをたたむ余裕がなくて、ソファーの上に山のようにうずたかく山のように積み上げてとかしてるのを、子供が畳んでるのをみてびっくりして。
あとは小学生になってすぐ、それこそまだ5月とか子供もまだ小学校に慣れてないという時に、仕事をして帰ってきたらご飯が炊けてたっていう、「ご飯炊いてくれたんだ」ちょっとびっくりして、にわかに信じられなくて、本人疲れてソファーで寝てたんですけど揺り起こして「ご飯の匂いがするんだけど誰が炊いたの」って聞いちゃうぐらいちょっとしっかりしすぎた子供になっちゃたんですけど。ただ入院してる時は保育園の4歳だったかな、内科入院のとき4歳で、うちの母に連れられてちょいちょい見舞いに来てくれたんですけど、見舞いに来てくれる時はにこにこ笑顔で来るんだけど、帰りに「ママがいいママがいい」って、泣いて帰って行くっていうのをよく見て、それもちょっと心にしみるものがあって看護師さんとかにも「今日廊下で泣いてる子がいたよ」っていう報告を受けて、ちょっとそこはかわいそうだったなっていうふうには思いますね。
診断時32歳、インタビュー時42歳(2016年5月)女性 関東地方在住 内科治療をひと通り行ったが改善せず、手術をするなら今しかないと思い手術を決断した。術後は良好。ご主人と小学生の子供と三人家族。
家族との関係ですけれど、まず自分自身の実母がベーチェット(注1)をやっていたので、潰瘍性大腸炎になったという話を、独身の時になったんですけど、すごく理解してくれて、日に日にこう、なんて言うんですかね、体調の波があることとか、そういったことをすごく理解してくれたし、食事も比較的和食中心のものがいいとか多分わかっていて、なんて言うんですかね、同じように病気を、同じくらいの年から患っていたので、母も。なのでそこは理解が得られたのですごくよかったと思う。
結婚してからの主人もすごく淡々としてるんですけどめちゃくちゃポジティブなので、こう、なんて言うんですかね、一緒に落ち込むこともなく淡々と、今何をやらなければいけないのかっていうことをまとめて説明してくれて、後、主人の父親も難病を患っていたのでこれまた主人もある程度理解があったので、そこについては非常に助けられたと思います。入院することになった時も母も遠方から数ヶ月間フォローに来てもらえたりしたし、主人も何もできない人ではなくて、お料理はする人なので、後子供の面倒は本当に赤ちゃんの時からすごく見る人なので、そこだけは非常に助かって良かったなと思います。やっぱり、家族の理解があるのが一番必要なことなので、すごいそこは素晴らしかったなと思います。
(注1) ベーチェット病は口腔粘膜のアフタ性潰瘍、外陰部潰瘍、皮膚症状、眼症状の4つの症状を主症状とする慢性再発性の全身性炎症性疾患。
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
Q:他に何か病気をしたことによって考え方が変わったとか、対人関係が変わったとか、そういうようなことがありましたらお話いただけますか。
実は私自身は医者ではないんですが、医学関係の研究を、私の場合は中心テーマは薬害の問題なんですけれども、医学関係の研究をしてきて、それで病気の体験をしたことはすごい貴重なことだったと思っています。
患者でなければわからないということがありますけれど、その通りでその経験が自分の研究の姿勢にも影響を受けているということかなと。そこは大事なことかなと。健康な者、強い者には不健康な者、弱い者の気持ちがわからない、ということが一般的に言えるんじゃないかなと。逆に、ですから不健康であった者、病弱であった者はその病気の苦しさを知って、体験している、だからそういう患者さんに寄り添って医療関係の研究をするということが、その源となっているということじゃないかなと思います。
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
Q:先生のお考えになっていることを臨床的に、統計的に出されたことはあるのでしょうか。
私一人が良くなったんじゃ申し訳ないということで、実はこの研究はですね、お名前出して構わないと思うんですが、慈恵医大の消化器内科の先生方といろいろ共同研究をさせていただいて、それでその先生方は栄養士とタイアップして、協力して食事療法を中心として患者さんを治療すると、薬物(医薬品)も勿論使われていると思いますけれど、そういう特に食事改善に力点をおいて治療するという医療を行っているんですね。
私も患者としてもお世話になりましたし、研究を是非進めたいということで共同研究をさせていただいて、その結果を先生方がまとめたものがありますけれど、文献を調べてみますとそういう研究が全然されていなかったものですから、潰瘍性大腸炎の原因として食生活の、油のバランスというのが国際的な著名な雑誌には全然出ていなかったんです。ウィルス説とかですね、ほかの原因のことがいっぱい書いてあるという状態だったんですね。ところがそれを、その先生方の実践で得られた結果、データをこうやって英語の論文を書かれましたら、掲載されてそれが非常に国際的に反響を巻き起こしている、そういうことがある。これらの論文では私も(多少お手伝いをしたので)連名に加えていただいたんですけれど、私は医師ではありませんので、患者さんの治療はしていないんですが、こういう研究をするときはコントロール、対照群と言いまして患者さんを調べるとともに、それと比較するということで対照群、健康な人と比較するということが大事なので、健康な人で検査を受けてもらう人を探して病院に紹介するという役割をしまして、そういう点から連名にして頂いたということです 。
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
Q:今のお話を伺っていて、先生は今油に注目してお話をされたんですが、食材という観点からは、こういうものは良いとか悪いとかいうものはないんですか。
具体的にその比が「日本食品成分表」というのに出ているんですね。それで私から(その数値から)見て良い食品、食べ物というのは海産物、魚、特に青魚を中心とする海産物ですね。それから野菜類ですね。そうしたものが比としてはいいんです。それに対して肉類ですね、肉類などは結構逆なんですね。それから食用油、リノール酸系の食用油を使った食べ物というのは非常にアレルギーとかこうしたIBDのような病気を増やす方に作用しているんじゃないかということです。
実は、このことを経験して、研究もして、テレビでお話したかったんですが、テレビはどうも「御法度」のようです。つまり(関連食品の)広告をバンバン出していますよね、そういう関係の食品の、そうしたものを多く摂らない方がいいという話はテレビ局にとって具合が悪いことなので、ストップになりました 。そのときは。
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
具体的には脂肪酸バランスと言っていますが、この比を測定する検査を健康保険に取り入れていく。そうすると医療(の場)で盛んにおこなわれるようになりますので、検査を促進するようにすべきだと言ったんですが、現在までは一部の病名で保険適用になっていますが、部分的なのでどうしても患者負担、あるいは医療機関の負担になるということなのであまり行われていないです。それから、比の測定検査を健康診断項目に入れたらこれはすごいことだなと、世の中すごく変わっちゃうんじゃないかなと思ったんですが、病人が大幅に減るんじゃないかと思ったんですけどね。そうなっていないですね。
それから病院給食を改善するということ。具体的には病院給食でオメガ6を減らしてオメガ3を増やすような食事を出すということによって、患者さんに良い影響を与える、特に心血管系の病気の場合ですね。それからアレルギー性(疾患)の場合だとか。それから薬局で薬剤師が服薬指導をする場合にそういう関係の病気の人に対しては食生活も改善するようにアドバイスしたほうが良いということです。このへんは先ほどの奥山先生も盛んに強調されていることなんですけれど。そういうことを世の中全体として心がけるようにしたら日本人は、長生きするようになったということですけれど、しかし「健康で長生き」ということになっていないですね。結構「病気で長生き」という状態になっているのは非常に本人にも辛いし、周りの家族も辛いわけなんで、その点を健康で長生きするような社会に変えていくということが必要で、そのために非常に重要なポイントではないかなと私は思っています 。
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
これはこの研究についていろいろご指導頂いた奥山治美先生という名古屋の薬学の先生がご本(注1)に書いておられるものでそれを私も真似をして実践しているということです。それでお寿司を含めて魚はほぼ毎日食べました。今でもそのような食生活を続けています。その結果先ほどお話したように食生活を改善して、病状が良くなってきてその経過をここにまとめたんですけれど、非常にびっくりしたんですが、それまでアレルギー性鼻炎の治療を減感作療法という治療法で受けていたんですが、もう良くなっちゃって、それを受ける必要がなくなっちゃたんです。これはびっくりしました。
それからこの比がオメガ6とオメガ3の比で、検査の数値なんですけれど、1対1に近づいた。(図2)これは棒グラフで絶対値では非常にでこぼこがあるんですけれど、この折れ線グラフが大事で、ここが1.0ですね。比が1という、オメガ6とオメガ3の比が。ちょうどのその1を前後していますね。それでこれを主治医の先生に報告しましたら主治医の先生がびっくりして、え、こんな日本人いるの?と言われたぐらいで、厚労省の目標値が4なんですけれど、欧米人なんか軒並み10以上じゃないかと言われていて、もっと高い人もいっぱいいるということですね。だから、ヨーロッパなんかでは欧米ではもっとこういうことを研究すればいいんだけれど、食生活が全般的にリノール酸過剰になっているから、研究が適切にできないということじゃないかなということだと思います。
(注1)「薬でなおらない成人病」(黎明書房)
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
図2へのリンク
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
それでこの図(図1)がすごく大事なんですけれど、こちらがアルファリノレン酸の流れで、こちらがリノール酸の流れです。私たち人間が油を摂取した場合にこのリノール酸を体に入れますと酵素の働きでアラキドン酸になってその後ですね、アラキドン酸がやはり酵素の働きでこうしたものに体内で変わっていくということです。これがそのアラキドン酸カスケードと言っているのですが、カスケードというのは滝のことです、それで日光の華厳の滝みたいにまっすぐに落ちるのはフォールと言っていますが、茨城県の袋田の滝のように岩を伝って落ちる滝はカスケードといいます。ですからアラキドン酸カスケードと名付けられているんですけど。それで体内で流れが進んでつくられるのがこうしたプロスタグランジンとかトロンボキサンとかそれからロイコトリエンの4系列といっているんですけれど、そしてこうしたものが体内でたくさん作られると炎症を促進する。それから血栓を作る。それからロイコトリエンの系列はアレルギーとか炎症を促進するということがいろいろと研究でわかっています。
一方アルファリノレン酸の流れはこの辺で似たような名前のものになるんですけれど、違うところはこちらが偶数系列に対してこちらは奇数系列ですね。こちらの流れはこういうふうに流れていって炎症とか血栓、アレルギーを促進しないということがわかっています。実はこの研究は「アラキドン酸カスケード」の研究ということで、研究した人はノーベル賞をもらっているくらいの研究なんですね。残念ながら日本人の研究ではなくてサムエルソンという外国の研究者の研究なんです。もしこれがその通りだとしますと、この図によって治療方法がわかる。どういう治療法かというと、こちらの方の流れを促進しないで、こちらを促進する。つまり、もととなるリノール酸を減らしてアルファリノレン酸、あとEPAとかなってくるわけですけれど、そちらの方を増やすと。それによってバランスが変わりますね。そういうことをすれば炎症とか血栓とかアレルギーが減らせるんじゃないかと。
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
図1へのリンク
診断時54歳、インタビュー時71歳(2016年4月)男性 関東地方在住 一度再燃したが薬物治療と食事療法により寛解(無症状、本人は「全治」と自己診断)が続いている。妻と娘夫婦とその子供二人の6人家族。
医療法人財団 健和会 臨床・社会薬学研究所所長 片平冽彦(インタビュー時の所属。保健学博士【東京大学大学院医学系研究科】
9月にテレビでこの病気についてある先生がお話をするという情報を得まして、ちょうどそれが退院した後でしたが、それを一生懸命録画して見ました。そしたらですね、その先生のお話は油の取り方の問題が関係しているということだったんですね。それでそれを調べる必要があると考えまして、具体的にはここにあるような仮説が立てられるのではないかと考えたんです。それは炎症性腸疾患、このクローン病も含めてですが炎症性腸疾患のIBDの発生とか増悪とか再燃にリノール酸、これは化学構造で端から数えて6番目に二重結合がある、そういう化学構造なのでNマイナス6と言っていますが、あるいはオメガ6という言い方をしていますけれど、その系の脂肪酸です。これは植物油に多いですね。よく世間で動物油は悪くて植物油はいいという俗説があってそういうことを言われる方もおられるんですけれども、私は植物油に多いということを確認しています。そうしたものを摂取しますとこのIBD(への罹患・悪化)が促進される。それに対してアルファリノレン酸、Nマイナス3、オメガ3ですね、その系統の油、脂肪酸。これはシソ油だとか魚の油に多いのですが、そうしたものを摂取するとIBDに対しては抑制的に、抑えるように作用するということで、重要なのはこの摂取比ですね。オメガ6とオメガ3の摂取比、これが上昇すると、つまりオメガ6の方を多くとってオメガ3の方が少ないと上昇しますね、比が。そのことがIBDの発生、増悪、再燃の少なくとも一つの要因となっていると、こういう仮説をたてたんです。
そこでですね、研究で最初にやるべきことは、それに関しての先行研究がどのようにこれまで行われてきたかということなんですね、文献を調べることなんです。それで文献を調べて見たら、いろんな面で、疫学的研究の面で統計的な比較ですね、また臨床的実験的な面でもそのことを示唆している研究が一定程度あるということが分かりました 。
(編集者注)当サイトは特定の薬や治療法を推奨するものではありませんので、ここで片平氏が述べた食事療法についてもその有効性を保証したり、推奨したりするものではありません。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
私がすごく信頼してる方から言われた、自分がすごくつらかったときに言われたのが、「病気は人生の教材だから、自分の精神性を病気を通してどう高めていけるかだよ」というふうに言われたことがあって、それを言われたときは、何かいい言葉だけど、ふに落ちないなというふうに思っていたんですけども、自分がずっとこの病気と付き合ってきて、手術のことですごく迷ったりだとか、あとすごく患者会で、こう人としてすごく本物だなという方に会えたりだとか、あと病気をコントロールすることを通して、自分、うまくこう精神的にも少し、ただつらいっていうだけじゃなくて、うまく少し自分を客観的に見たりだとか、いろんなことができるようになってきて、今本当に何か少しずつなんですけど、そういう、つらかったこともあるけど、「病気は教材だよ」って言われたのが最近になってちょっとふに落ちてきたなということがあるので、この病気になって、どうしてこうなっちゃったんだろうっていう瞬間ってすごくたくさんあると思うんですけども、ただ、きちんと向き合うっていう意思を持ってこれからも付き合っていけたらいいなというふうに思います?。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
患者会は、私は潰瘍性大腸炎の患者会には最近になって行くようにはなったんですけども、20代のころはほとんど行っていませんでした。理由は、まず主治医の先生をすごく信頼していたので、治療法に関して何か疑問を持ったりだとか、何か誰かに聞きたいって思ったことがほんとにほとんどなくて、患者会にその点、その治療法に関して何か聞くという意味では患者会に行く必要性を感じなかったのと、あと20代のときにその患者会のホームページだとか写真を見たりすると、ちょっと大人の人が多くて、ちょっと行きづらいかなという印象を持っていました。
ただ、患者会で自分の気持ちを共有したりだとかすることは大切だなと今は思っていまして、私のすごく個人的な経験なんですが、病気は違うんですが、がん患者の方と一緒に月に1回、がんと就労という社会的課題、いろいろ問題になってると思うんですけども、がん患者の方の患者会に参加をさせていただいていました。で、もちろん生きることに向き合った上で、皆さん社会とのつながりという意味で仕事について考えている方たちなので、自分も仕事を頑張ろうとかということはもちろんですけども、病気になった自分の人生をどう全うしたらいいのかというのをその方たちと話していると、すごく考えさせられます。すごく病気でうまくいかないことはあるけども、それを受け止めていこうという、すごく意思をもらえる会でもあり、すごく気持ちを共有してくださる、分かってくれる方たちでもあります。そういう経験があるので、やっぱり患者会で普段の自分の気持ちを共有する場所だったりだとか、あとやっぱりただ病気になっただけではもったいないと思うので、もっと大きな意味で、病気になったこととどう向き合っていくかをみんなで考えたりできる場というのは、すごく大事だなというふうに思います?。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
Q:例えばお友達との関係の中で、あなたが病気したことによって友達関係に何か変化とか出たりとかしましたか。
友達には、この病気のことは言わないようにしています。というのも、やはり20代で潰瘍性大腸炎っていう病名を友達に言うと、やっぱり向こうもすごくこう壁をつくっちゃうというか、悪気はないんだろうけども、多分何て言っていいか分からなかったりだとかしちゃうのかなっていう感じがするので、やっぱり気を使わせたくないというふうに思うので、友達には言わず、病気であっても普通の元気な自分もあるので、友達にはもう普通の元気な自分のところだけで付き合うようにして、病気の悩みだとかは同年代の友達には言わないようにしています。
Q:お友達にはやっぱりちょっと言いづらいというのは何か気持ちとしてはすごく個人的には分かるなって思う反面、こう何というんですかね、やっぱり何か話したくなる時みたいなのってありませんか。
もちろん1人で抱えているとすごく孤独になってくるので、話したくなるときというのは、患者会だとかで話すようにしています。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
この病気を持ちながらどう仕事をしていくかというのは、やはり大きな課題だと思うんですが、私の会社はすごく理解があります。発症してすぐに会社には申告したんですけども、その際から、上司は年々替わってはいるんですけども、常にすごく協力的でいてくれています。ただ、やはりこの病気はどうしても寛解期と活動期があるので、調子が悪くなってきたら、理想的には調子が悪くなってきたら会社と相談をしながら、うまくやっていけたらいいなというのは頭では分かっているんですけども、それがどうしても実際にはうまくできず、何度もちょっと無理をしてしまって、緊急入院みたいな形になってしまって休職せざるを得ないような状況に、今まで3回ですかね、3回ほどなってしまっています。
というのも、どうしても体の調子が悪くなってくると何かもう視野が狭くなってきてしまって、何とか今日一日乗り切るぞとか、今月いっぱい何とか乗り切るぞというふうな考え方になってしまいます。多分、自分で思うのは、やっぱりその裏には、病気で迷惑を掛けちゃいけないなというような気持ちがあってとか、あと病気で仕事で何かこう駄目なやつだと思われたくないみたいな気持ちが、どうしてもあるんだと思います。会社は協力的でいてくれているので、会社は自分が無理をすることを期待しているのかって落ち着いて考えたらしていないですし、もっとうまく相談をしていけるようにできたらいいなというふうに頭では分かっているので、それがうまくできるようになったらいいなというふうに思います。やっぱり迷惑を掛けているとかという考えではなくて、病気だから分かることというのもあるので、それを仕事で生かしていくとか、もっとプラスの考えに変えていきたいなというふうに思っています。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
Q:これから結婚とか出産とかということに向き合うことになるかもしれないんですけども、その結婚とか出産ということに関して、ご自分の病気のことで何か不安とか、そういったものというのはありますか。
薬は大半の薬は影響はないですし、ほとんど病気が影響することはないなというふうに思います。ただ、今自分が数年ぶりに寛解に至って思うのは、やっぱり活動期は結婚だとか出産というのは一切考えられなかったので、そういう意味ではすごく精神的には影響していたんだなということを、今になって思うということはあります。ただ、治療としては影響はほとんどないと思うので、今、現時点では特に不安はないです。
Q:じゃ、ご自分の病気が例えば結婚とかということの障害になるというようなことはないということですか。ないというふうに考えておられますか。
今は、そう思います。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:ご家族だけじゃなくてお友達とか何か周りの人も、今出てきた職場の状況とご家族だけだったんですか?ご友人との関係とかっていうのは。
友人は全部私の病気のことをみんな知っていたので、すごく闘病中も、まあ本当にこれはありがたいなと思ったのが、今はメールとかがありますよね、だから昔と違ってやり取りがダイレクトにすぐツーカーでできるので、闘病中も頻繁に友達からはメールとかも来て励ましてもらったりはしていましたね。だから逆に寂しいとかそういうことはなくいられたなというのはありました。
Q:お友達とか周りの方から言われてすごく励みになったり、うれしかったり、支えになったりしたことはどんなことがありますか。
やっぱり友達が元気になることを信じていつも待っていてくれてたっていうのとか、あと私はちょっと長かったので、毎年毎年お正月がきて何か皆さん祈願に行かれたりしますよね。その時に必ず友達は私のことを祈願してくれてお守りを送ってきてくれたりとか、「自分のために頑張れないんだったら私たちのために頑張ってよ」じゃないけど、そういうメッセージをくれたりとか、本当に恵まれていたなと思います。なのに私は、つらすぎて死にたかったり、頑張ろうという気がなかった人間だったので、すごい恥ずかしいというか、だから今生かされたのは,懺悔のために生かされたんじゃないかって思っているというか、残りの人生はやっぱりそういう人たちのためにも心して生きなきゃいけないなとは思っています。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:勤める時にはご自分の病気のことはお話しされましたか。
していないですね。その時の年齢が私は39だったので、39で社会復帰するというのも、やっぱり30代が全部入退院・手術の繰り返しで社会生活が送れていなかったので、結構履歴書に書く時にブランクがあるので(笑)突っ込まれるかなとは思ったんですけど、幸か不幸か突っ込まれなかったので、あえて自分から言うこともないかなと思って入る時は言わなかったです。
Q:今もお話しされていないのですか。
話をせざるを得なくなったきっかけというのが、私がこの病気を体験したことを通して絵本を書いたんですよね。その絵本が出たことによって会社にはバレるというか、話さざるを得ない状況になったんですけど、まあ環境が薬局なので、やっぱり医療従事者さんなので皆さんすごく理解をしてくださって、むしろ働きやすくなりました。
Q:最初の就職の時に病気のことを話すと就職しづらいかなというのは、やっぱりありましたか。
ありましたね。年齢も年齢だったんですよね。39だったというのもあるんですけど、やっぱり仕事を辞めてからそこまでの年数が長いので、「じゃあこのブランクは?」っていうところもあったので、あまりこういう手術をいっぱいしてきたとか言うと、やはり「また何かあったら」と先方に思われてもマズイなとも思ったし。主治医の先生は「言っておいたほうがいいんじゃない?」とは仰っていましたけれど、でもまあ普通に食事もとれるようになっていたのであえて、まあ聞かれれば、そのブランクのことを聞かれてしまえば正直に話すつもりはあったんですけど、聞かれなかったので話さないで終わってしまった。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
私は母と2人で暮らしていたので、正直私が最初に潰瘍性大腸炎だよって言われた時に私本人はそんなに打撃がなかったんですけど、母はかなり衝撃的で、泣かれたことは覚えていますね。でもその後、私が救われたのは、母がもともととても明るい性格の人なので、どんな時でも「絶対治る」がモットーの人だったので、私は正直本当に恥ずかしいんですけど何かもう死にたかったし、元気にしてくださいと思ったことがなかったというか、もうこんなにつらくって、こんなに大変で、正直人工肛門も自費なので結構な金額がかかっていたんです。そういういろいろ、諸々考えると、こんなお荷物がずっと生きていたらみんなの迷惑になるっていうのもあったので、本当に死ねるものなら死にたいなっていうふうに思っていたんですよね、親不孝なんですけど。でも母は全然そういうのも気に止めずいつも明るく接してくれていたので、母のおかげで生かされたのかなっていうところが正直ありますね。一緒に母も落ち込んでしまうような人だったら、こういう結果にはならなかったかも知れないのかなと思うことはあります。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
その主治医の先生が仰るには、内視鏡のカメラを入れるとわかるらしいんですけど、腸壁にどうしても残るものっていうのは口の中の唾液で溶けないものって仰るんですね。なので「溶けるか溶けないかを実験していくとわかるよ」って言われて、本当におもしろいぐらいそれが当たっていて、意外とステーキとか焼肉とかって溶けるから大丈夫なんですよ。でも、むしろヘルシーといわれている野菜とか、ある意味おそばとか、そういうのは絶対溶けないので腸壁に残っちゃうんですよね。だからそういうものは逆に食べないほうがいいんだっていうことがわかりました。でも病院に入っちゃうとどうしてもうどんが出てきたりするので、いいんだと思って食べがちなんですけど、意外とそれが腸閉塞を引き起こすんだ、ゼリーとかもそうだったんですけど、ダメなんだって。寒天系ですよね、そういうのも実はいけないっていうのがわかり、むしろそれだったらチョコレートとかチーズとかアイスクリームとか、そういうほうがいいんだよっていう。その先生のアドバイスから私もいろいろ食を実験、まあこの病気の人はみんなそうだと思うんですけど、本当にマニュアル通りではなくそれぞれ体感が違うので自分で実験していくと思うんですけど、私もその後はそうやって先生に言われて“溶ける・溶けない”をいつも考えて食べるようにしていたら本当に腸閉塞にはならないし、腸閉塞もすっかり治ってしまったし快適なので、「ああ、これは一理あるんだな」と思って、いい勉強になったなとは思います。
診断時45歳、インタビュー時52歳(2013年2月16日)関東地方在住3年間の内科治療の後2009年に全摘手術をした。術後はほぼ順調で現在は便の回数も7回程度で安定している。家族は母親と妻と3人暮らし。
家族は、まず、家内は、えー、苦しんでる…もう、私を見ることによって、やはり、精神的には相当苦しんでいて。最終的には、それを見続けて胃潰瘍になってしまったんですが。(笑)それで、あとは、そうですね。そんな状況なのに、仕事をさせてるということに、何か、こう、後ろめたさを感じてるとよく言われますね。要するに、すごく具合が悪いのを見てるのに、えー、まぁ、自営業ということもあるので、仕事をさせないと成り立たないということに、すごく、こう、辛い思いをしてるとは言ってますね。それと、ステロネマとか、あの、あと、何でしたっけ…注腸のやつがありますね。あれをした時に、すごく痛みが出るんですけど、あれをやったあとに、痛んでる自分、痛がってる自分を見て、あの、どうしていいかわからないっていうことは言ってますね。
あと、母親がですね、あの、まぁ、ずっと見守ってくれてる形だったんですが、県の便りを見て、そこで、あの、潰瘍性大腸炎の講演会があるということで、えー、東京のほうから有名な先生が来るということで、出席したらどうかって言われまして。自分はそんなところに行っても治らないと思ったんですが、一応、勧められたとおりに行きまして。そこで、その講師の先生から、えー、現在のIBDの内科の先生を紹介していただいて、その内科の先生のつながりで、まぁ、外科で手術ということで、まぁ、運命が飛躍的に変わったので。
診断時27歳、インタビュー時62歳(2012年9月23日)関東地方在住。
15年間の内科治療の後、全摘手術をしたが、その後何度も腸閉そくを起こし、最後は繋ぎ目のところが壊死をしてしまい、緊急手術もした。それでも大腸全摘手術をしたおかげで、公務員としての仕事を定年までまっとうすることができた。現在夫と子供二人の4人暮らし。
そうですね、私がこのプロジェクトに参加したのは、私が発病した頃には本当にまだ全然情報がない、潰瘍性大腸炎っていうのは本当に新しい病気って言われた時に発病して、不安もありました。で、その後、その状況で30何年間この病気と付き合って来たんですけども、私自身のこと考えると、本当に病気で辛い時もいっぱいあったんですけど、今振り返って見たら、一応38年間勤めて、ちゃんと勤めてこれましたし、今の生活は体育の教師っていうこともあるんですけど、運動好きですので定年退職後はスポーツセンターに行って、週4日、4時間ぐらい卓球とかバドミントンとかやって、そういう楽しみながら生活してますし、ちゃんと運動もできますし、まそういうふうなことを知ってほしいと思うし、
それからもう一つ、2年前にその手術した時に、やっぱり若い人たちが、ハタチ前後の人たちが結構入院して他の病院から紹介されて手術だけに来ましたって人を何人か見かけたんですね。意外とみなさんしっかりしているので、ですけどハタチ前後で大腸全摘手術っていってるのは、非常に本人自身は受けた方が楽だと言われたとか、手術するんだっておっしゃってましたけども、ただ本当に若いですし、これから出産とか、女の子は出産とかあるので不安が一杯だと思うんですけども、そういう人たちに私自身がちゃんと子供を産んで育てて、仕事もして、ちゃんと今こうやって生活していますよってことを伝えたいなと思ったものですから、今こういう形で私の病歴のことを話しているんです。
診断時27歳、インタビュー時62歳(2012年9月23日)関東地方在住。
15年間の内科治療の後、全摘手術をしたが、その後何度も腸閉そくを起こし、最後は繋ぎ目のところが壊死をしてしまい、緊急手術もした。それでも大腸全摘手術をしたおかげで、公務員としての仕事を定年までまっとうすることができた。現在夫と子供二人の4人暮らし。
実を言いますと体育の教師なんです。体育の教師でして、勿論体力的なものもあります。ですからあまり迷惑をかけたくないってことで、もう具合が悪くなった時点で、もうできるだけ早く療休を取るという、そういう感じで届け出をすぐ出していました。早めに出して、ちょっと長期的に療休を取る。取れば必ず代わりが来るんです。代わりの先生が。長期的な療休を、この病気は短期間で治らないことが分かってたんで、例えば半年とか、長期的にばっと取っちゃって、それで休むという、自分でそうしてましたので、そうしたら代わりの先生が、2-3週間後に来るっていう形でしたので、まあそれほど・・まあ、勿論迷惑はかけてました、職場の皆さんには。色んな、教えること以外に色んな仕事がありますので、雑務もありますから、そういうのを引き受けてもらったりとかしたんですけど、まあそいう状況ですので、まあそれほどどうしようもなく他の人に迷惑かかるという、そういうことはないようにして心掛けてきました。
診断時27歳、インタビュー時62歳(2012年9月23日)関東地方在住。
15年間の内科治療の後、全摘手術をしたが、その後何度も腸閉そくを起こし、最後は繋ぎ目のところが壊死をしてしまい、緊急手術もした。それでも大腸全摘手術をしたおかげで、公務員としての仕事を定年までまっとうすることができた。現在夫と子供二人の4人暮らし。
Q:お子様たちがそのお母さんの病気をどういうふうに見ていたのかとかですね、当然そのご主人にその間色々負担もかかってたと思うんですけど、そのへんは何かそういうお話とかされますか。
えーとですね。勤めてた関係上、子供が小さいころから保育園にずっと預けていたので、子供たちは保育園生活で、私が元気なころは、勤めの出勤前と出勤後に引き取りに行くという形で全部私がやっていたのですけれども、当然私が入院した場合には主人がそれをやって、やらざるを得ない状況になりましたし、あの、主人の母親と同居していたものですから、主人の母親が一応子供の世話をしてくれるという状況でしたので、そういう意味では子供のことに関してはもう割り切ろう。自分自身で思って、早く病気を治して家庭に戻ろう、職場に戻るのが私の務めだと思ったもんですから、意外と割り切って病気とは戦っていけたかなと思うんですけど。
Q:ご主人の方はいかがですか。
いやー主人もそうですね、あまりやっぱり深刻に、私の病気に対して深刻に考えてないんだろうと思うんですよね。私が元気でっていうか、あまり症状が出てないときは普通に働いてますから、協力はしてくれなかったですけど、やっぱりあの入院したりすると、せざるを得ない、そういう状況でしたので、まあ、結構入院生活とか病気と闘っている時間が長かったですから、まあ、協力はしてくれたと思いますけども、でもあのおばあちゃんがいた関係で、小学校に二人とも入った時点ではもう、小学校は普通に通ってて、普通に帰ってきて母親がいないだけの状況ですから、まあそれほど、さみしかっただろうとは思うんですけども、大丈夫だったのかと思うんですけど、大腸全摘、最初の大腸全摘した時は上の子が丁度中学2年生でした。その間は勿論ずーと何回も何回も入退院を繰り返してたんですけども、まあ小学校高学年で子供たちもわかってきたのかなあと思うんですけども、あの、意外と男の子でしたのでさっぱりしてる面があって、まあ中学校に入ったころはほとんど病院に来ないという、そういう状況でした。でも私の方も割り切ってましたね。
診断時27歳、インタビュー時62歳(2012年9月23日)関東地方在住。
15年間の内科治療の後、全摘手術をしたが、その後何度も腸閉そくを起こし、最後は繋ぎ目のところが壊死をしてしまい、緊急手術もした。それでも大腸全摘手術をしたおかげで、公務員としての仕事を定年までまっとうすることができた。現在夫と子供二人の4人暮らし。
Q:そうしますとその手術して全摘した後も、食事とかはかなり気をつかっておられるのですか。
えーと、腸閉そくを起こすこと、その自体で気を使いました。好き嫌いはないんですけど、腸閉そくを起こす時はやっぱり、こう何て言うか消化の悪いもの、それを食べると腸閉そくを起こすっていうことが感覚的にわかってきたので、生野菜は絶対食べないとか、後、もやしとかそういうのも食べない、キノコも食べない、そういう感じで食べ物はやはり気を使っていました。ただ、手術した後はほとんど一切薬は飲んでいません。あの最初の手術もそうですし、今回の手術もそうですけども、手術後は薬も飲んでませんし、そういう意味ではステロイドを飲んでて苦しんでた10年近くの病気の闘いの頃を思うと非常に生活の質は上がったかなと思うんですけど。
Q:やっぱりこれを食べたら必ずなるみたいな。
先入観的な感じでそう思い込んじゃってるもんですから、食べませんでしたね、やっぱり気を使って。勿論家族の調理は全部私がやっていますので、そういうものは全部使いますけども、取り除いて食べるって感じで、気を使っていました。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
Q:ご自身の病気の体験が、何かに活きてるな、活かせそうだな、これから先活かせそうだなとか、今自分がこれが役立っているとか思うことって何かありますか。
まず一つ目はさっきもお話したけど、将来。多分病気をしてなかったら看護師になろうとか司書になろうなんて多分思ってなかった。看護師のなかでもIBD科に勤めたいって思ったのはやっぱし、自分がちっちゃいころに病気をしてるから、その人のある程度の気持ちは理解してあげれるから、なんだ、役立てるんじゃないか、ん、恩返しかな、恩返しできるんじゃないかなと思うので、役立てるし、後はなんだろう、何かを決めるときにはやっぱし病気のことを考えなきゃいけないけど、病気のお陰で、おかげじゃないけど、自分が潰瘍性大腸炎だったおかげで、人との縁がすごい広がってるんですよ。そういうのが大好きなんです。病気の人とのお話ができるようになったご縁もあれば、同じ病気の友達とも話せることができたし、看護師さんともお話できるし、お医者さんともお話になれるといって、すっごい人との縁が広がっていくのがすごい、あ、病気のお陰だなっと思ってうれしいんです。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
もう潰瘍性大腸炎になってから、最初は隣に居る病気君だと思ってたんですね。で、手術をしてからは、もうこの子とはひどくはなんないけどある程度、完治とは言ってもらえないけど、大丈夫になったから、もう自分の中の一部になってるんですね、病気君が。受験をするのにも、生活するのにも、何をするのにも、一応は私は一応病気をもっているんだということを頭に入れながら高校を選ぶのも、私、こうこうこういう病気を持ってるんですけど大丈夫ですか、受け入れてくれますか。どういう対応をして下さるんですか。相手の学校に、ずーと、私潰瘍性大腸炎なんですけど本当に大丈夫ですか、どういう対応をして下さるんですかっていうのをずーと質問してます、毎回。
Q:学校側はそれに対してどういう反応をしましたか。
公立では、「あ、そうなんですか」受け流したわけではないと思うんですけど、あちょっと反応が軽いんじゃないかな。もう少しだけ真剣に、ちょっとだけでも考えてほしかったな。でもある程度の対応は、できるだけの対応はしますよと言ってくれてるんですけど、やっぱり私立とかと比べちゃうと、私立の場合もともと色々な設備を備えているから、ストマトイレがありますよって言われたり、「病気持ってるんですけどどうしたらいいですか」って言ったら、「単位だったらちょっと日付を変えたり、夏休みの時に来てもらって勉強したりすればいいだけですから、別にこちらとしてはそんなに深刻な問題とは考えなくて大丈夫ですよ」
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
一人の女の子から他の男子に「この子はこういう病気なんだって」って伝わっちゃって、その後帰りにいつも挨拶されないのに「元気でね」って言われたり、ひどかったのは、たまたまちょっと体調が悪かったのかわかんないんですが、ちょっと元気がなかった時に、多分その彼的にはそんなに悪い心で言ったわけではないんだけど、「もうすぐ亡くなられるんですか」って言って「もう余命宣告されているんですか」って言われた時には、ああ変に伝わっちゃたんだと思って、そこはもう少し私が掘り下げて話した方がよかったのかなとか、ああ伝えなかった方がよかったのかな、っていってちょっと傷つきましたね。
でも彼には、大丈夫だよ、余命宣告されてないからって言って笑顔でかわしたんですけど、んーんその知ってる子に言った時には「大丈夫なの?」って言われて、彼女は本心気付いたんだなと思いながら、ちゃんと伝える時は全員に伝えた方がいいのかなっていうのも思いました。掘り下げて話さないと余命宣告されるような、される人もいるかもしれないけれど、されるような病気では主にないのに、余命宣告、お医者さんにもされてないのにまさかクラスメイトから言われるとは思いませんでした。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
今は普通の学校に行っていますが、それまでの間は院内学級系列の学校に行っていたので、みんなやはり心の病気だとか、体の病気だとかっていうのがあったので、できるだけ病名はみんなそろって聞きあいっこはせず、ああ大変だね、っていう感じでしたが、ストマの時だけはちょくちょく捨てに行かなきゃいけないので、行っていると、小中一貫だったので、小学生の子からは、何であの人は何回もおトイレに行くの、あなたは何でこんなにいっぱい行くのって聞かれた時は、ついつい何て言えばいいんだろうと思って戸惑いはありましたね。
やはり先生に承諾を得てからお手洗いに行くっていう形じゃないとやはりだめなので、その時に、わあ言いたくない、言いたくないけど言わなきゃいけない、言わないと溜まってもれちゃうよ、っていうのがあって、そのことを保健の先生に相談したら、カードを作ってくれて、このカードを見せた時は、私はトイレに行ってくるから授業を進めといていいですよっていう合図にしようって言って提案してくれたのはとても助かりましたし、まあ院内学級系列っていうのもあって、ストマトイレが学校にあったというのがとても私としては助かったなというのがあります。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
Q:お友達に自分の病気のことを話すっていうのはなかなか難しいと思うのですが、相手によって理解してくれる場合もあるし、今おっしゃったように腫れ物に触るような形になることもあると思うんですけれど、今までそういうお話をして、聞いてもらって良かったなっていうことはありますか。
聞いてもらって良かったなっていうのは、腫れ物扱いされるかもしれないし、納得してくれる子もいますが、一人に伝えたということでそこから広がってくれればなって、無理な話、想像だけど、そう思うと言ってよかったのかなって、必ず思いますね。今もう普通の学校に戻りましたし、まだ転校の理由だとかそういうのは言っていないのですが、いずれみなさんに言う機会があればクラスの方には伝えようかな、言おうかな、っていうのは思っています。
Q:なかなか難しいですよね、言うタイミングっていうのも。でもこういうインタビューも受けていただいたんですが、ご自分がこういう病気だったんだよ、手術をしたんだよということを公表することに不安というか、やだな、はずかしいとかそういう気持ちはあまりないですか。
いえ、はっきり言ってありました。(病気に)なって(病名を)聞いてからは、小学校4,5,6年生、(中学)1年生も入ってたかな、絶対にこの病気の名前は言わないし、どういう症状でどんなことがあったかも絶対に言わないっていうのを決めていたし、やはりあのおばあちゃんとかおじいちゃんとか、そういう方も、心配して電話をかけてきて、それを母親や父親が説明しているのを聞くと、本当にいらっとしたし、私はそんなひどい病気じゃないって言って必ず否定をしていましたし。なので、昔の自分からすると、今こうやってインタビューに答えてたりだとか、友達に言おうと、伝えようとするとか、そういうのを昔の自分からすればすごいことだなって思えるのかなっていうぐらい、はい。私は潰瘍性大腸炎です。だから?みたいな、本当にそんな気分で、できるだけ多くの人に今は頑張って伝えなきゃなと思っています。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
私の場合は、発病してから名前を聞くまで、名前を聞いてから、病院の先生がこの病気はこういう症状でこういうものだよっていうのを聞いてたんですけれど、両親との話では、その病気の名前だとか治療法だとか聞いてからちょっと精神的にバランスを崩したというのもあって、今度から治療のどういうことをするかも伏せ、名前、一回言ってるんですけど、伏せって言うのを両親の間で考えてたっていうのを、手術が終わってから聞かせていただきました。でも結局言わないと治療は進められないというのをいつしか気付いてくださいまして、それからはお薬飲むのも、こういう治療法をするよっていうのも自分で聞き、じゃあいいですよ、でもこれはちょっといやだなっていうのはできるだけ言えるようになりました。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
給食の時にカレーライスがでて、みんながカレーライスをよそっているけど、私のお盆にはもう野菜スープが盛ってあって、ナンが置いてある。私、今日これなんだな、みんなおいしそうなカレーライス食べてるし、いいにおいがするからよけいカレーライスが食べたい。当時の大好物がカレーだったのがあって、ああ、隣カレーライスじゃん。机を合わせて食べるから隣のカレーライスのにおいがすごいにおうんですよね。ああ、カレーライス食べたいと思ってて。でも野菜スープで、思わず、においで、ああーと、ため息しか出なくて、その次、「いただきます」してから、食べ始めた時に、なんでお前は野菜スープなんだよ、なんでカレーじゃないんだよって、一人に聞かれて一つ説明する、また違う子が聞きに来てまた説明する、それの連鎖。もう面倒くさい。面倒くさい!っていうのがあって。食べれないし、匂いはする。で、何回も同じことを説明する。
そんなルンルンで自由研究は発表したけど、そこまで私はそんときは病気を、病気のことなんて大嫌いなんですよね、どっか行っちまえって思ってたくらいだから、またその病気のことを説明しなきゃならない、そういうのも全部給食の時間にまざちゃって、もう給食なんて食べたくないって思いました。野菜スープじゃないこともあったんですけど、牛蒡サラダがキュウリのサラダになってて、そん時はみんながそんなに反応しなかったけど、私としてはわあーマヨネーズ一杯の牛蒡サラダが隣にあるなと思って、食べたいけど、でも私食べられないからキュウリのサラダがもうお盆の中に載っている。じゃ私これしか食べるものが、これを食べなきゃいけない。だって自分のなかで、あれ、たべれないものがあるっていう、他の人が食べている、目の前で食べているのを私は食べれない。いらいら、いやだ。その次に野菜スープ事件がくる。もう爆発しちゃいますよね。なんで食べられないの、なんで病気のせいで、こんなに食べられなくならなきゃいけないの。怒りです。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
この病気私本当に悪くなったり良くなったりなんで、ただまあ、くよくよしててもしょうがないと思うんですよね。なるようにしかならないし、悪くなるときは悪くなるし、良くなるときは良くなる。だからある程度もうしゃあないやとしょうがないや、本当にある程度割り切ってやってく、気持ちをある程度気楽にした方が、それでもうやってった方が、却って病気のためにもいいと思います。
打ち込むこと、仕事でも趣味でもなんでもいいですけど、他に打ち込むことがあれば、逆に病気のことを考えてると悪くなる気がするんですよね、かえって。あれ食べちゃいけない、これ食べちゃいけないと神経、気を遣い過ぎたりするのもよくないし、本当にあまり病気のことは考えない、何か他に仕事なり自分の趣味などに打ち込みながら時間を過ごしていくと、逆にその方が自分の人生そのものも楽しいですし、病気にとっても悪くならない方には行くと思っているので、そういう形で同じ病気持ってる方がいらっしゃったら、過ごされるといいのではないかなあと、これはもう科学的でも何でもないですけど、私の今までもこの病気、17年くらい、15-6年くらいやってますけど、私からの感想ではあります。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
患者会に入った経緯ですけども、これは何だったかな、多分インターネットかなんかで調べたんですよね。私もやっぱりドクターって言っても、こんなこと言っちゃなんですけど、しょせん自分では経験していませんから、そんなに親身になってというか、本当にわかってんのかなあ患者のことなんかという思いもありますし、家族とか友人にもそういう人いませんからね、しゃべっても、それはうちの家族はそれはすごく親身になってくれますけれど、やっぱり同じ境遇というか同じ悩みを持ってる人と話したいというのがありまして。
インターネットで調べたところ、そこで今の患者会が見つかって、さっそく電話でしたかね、メールしてみて、参加することになったんですね、そういう会合みたいのに。で、もうかれこれそれに参加して3年か4年、毎回行かせていただいて同じ境遇の方がねいらっしゃって、もう正直愚痴を言い合えるだけでも私は満足するぐらいなんですけど、ま願わくばいい情報がもらえて、というのがそれはあるんでしょうけど、最大のメリットは同じ方々と本当に悩みを打ち明けられて、愚痴を言いあえて、それでなんか心が軽くなるといいますかね、そういうあれが一番患者会に入れて参加できている一番の自分にとってメリットであると思っております。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
入社試験はありませんが司法試験というのがありましてね、弁護士なので、あれはこの病気には非常によくないと思いましたね。やっぱり、確かにそんなに頭がいいわけでもありませんのでなかなか試験が難しくて、プレッシャーもひどいもんでして、試験の時のプレッシャーはひどいもんでして、最後に受かった年の司法試験もトイレに駆け込みながらいってる形だったので本当に苦労はしましたね、
試験においても。やっぱりストレスが一番よくないということなので、と言われましてもストレスを感じるなというほうが無理な試験でして、しょうがない、そこはもう仕方がないと、だからといってこの試験あきらめて、他の仕事に就くのは自分としてはいやでしたので、もうどうなってもいいやと、半分諦めながらもがむしゃらにやってたことはありあます。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
やっぱり調子が悪くなるとトイレも多いですし、私仕事柄弁護士をやっていますと、法廷中にトイレが、ちょっとすいませんと法廷を中断してもらってトイレに行った覚えもあったこともあるので、支障がないと言えば、無いことはないので大変ではありますけど、まあ、でもそうですね職場でも割とこの仕事は何て言うのかな、勤務時間が何時から何時までというわけではないので、自分の裁量である程度やっていけるので、まあ、法廷の時以外はそんなにきちっと決められているわけではないので、トイレは何回も行きながら、自分の裁量で時間を、自分のペースでやっていましたので、何とか。職場にも言ってはいますので、その話を、ですからまあ、理解してもらっているところもありますので、何とかやっております。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
うちの母親はすごく神経を、もうなんかすごく落胆していましたけれどね、それでこんな病気になったのは私のせいだとか、よく嘆いていることもありましたし、あと、周りの人には絶対言っちゃだめよということで言ってまして、うちの母も私の病気に関しては他の人には一切言ってなかったようですし、かなり過敏になってたことはあったようですね。ただ、私はそれほどでもなかったので、他の人にもぺらぺらしゃべっちゃいますし、別にそんなに隠さなくてもなあと思うくらいのものでしたね。却って他の人には言っといた方が、理解は得られて何か色々、こちらも色々物事言いやすい、やりやすいという気持ちはかえって持っていました。
診断時31歳、インタビュー時50歳(2012年3月)関東地方在住。長年にわたる内科治療と数回の入院のあと手術をし、現在は元気に小学校の教員をしている。家族構成は夫と娘、息子、夫の両親の6人家族
自分が動かなくちゃいけないということがわかりました。自分が知りたいと思うことを自分で調べるし、ネットワークが、ありとあらゆる色んなところで色んな人がネットワークを作っているんですけど、そこへ自分が行かないと、自分で電話をするにしても、相談しに行くにしても、とにかく自分が動かないとだめだっていうことがわかりました。
病気になるとなんとなくへこんでしまったりとか、なんかこう弱くなってしまうんですけど、落ち込むだけ落ち込んだら、こんどは自分で歩き出さないと、自分が動き出せば色んな人が助けてくれるんですけれど、ただ立ってるだけではなかなか・・助けてもらいたいんだよってことをアピールすることを少なくともしないといけないんだなって思いました。自分がアクションを起こせば色んな人が色んなことをしてくれる、色んなことが動いていくっていうことが、本当にこの病気を通して思ったんで、色んなことをあきらめちゃいけないなということも感じたし・・そんなところです。
診断時31歳、インタビュー時50歳(2012年3月)関東地方在住。長年にわたる内科治療と数回の入院のあと手術をし、現在は元気に小学校の教員をしている。家族構成は夫と娘、息子、夫の両親の6人家族
臨時適用職員として職場に戻って4年目に本採用の試験を一応受けて、たまたま通ったんですけれど、その時も、今度はもうちょっと健康診断はかなり重要なもので、神奈川県では月に1回、県の審査っていうのがあってそれに通らないと採用には多分ならなかったと思うんですが、それもまあ、嘘を書くわけにはいかないので、病名を書いて、やはり医師のコメントを書くようなところがあったと思うんですけれども、そこに仕事をするにあたっては差し障りがないというみたいなことを書いていただけたんで問題なく通りました。
仕事を始めて困ることっていうのはあまりないんですが、一番最初に遠足の引率というのがあって、ちょっと心配だったんですね。なかなかトイレに行くっていっても、トイレがないわけじゃないんですが、トイレに行くって言っても自由に行けるわけじゃないんで、どうかなって、途中でトイレに行きたくなったら困るなって思ったんですけれど、緊張してたせいか、戻ってくるまで一度もトイレに行かずに何とかクリアーすることができて、ああ意外に大丈夫かななんていうふうに思ってたんですね。その後も遠足だったり修学旅行だったりいろいろあるんですけど、まあ何かかんか、トイレが一番心配なんですね、それ以外のことは全然今心配することは全くないです。
診断時56歳、インタビュー時61歳(2012年2月)関東地方在住。2007年に潰瘍性大腸炎と診断され、内科治療のあと手術。術後しばらくは大変だったが、現在は大変元気で障害者の働く、ふれあい喫茶で店長をしている。息子と夫婦と3人暮らし。
Q:今は仕事をまたされているとのことですが、その仕事に何か影響があるとか差し障りがあるということはもうないんですか。
今の仕事は3年前からしていますが、その前の仕事は完全にもう諦めまして、辞めようという感じで諦めたところにたまたま今の仕事の募集を知りまして、受けました。その時は病気のことはあえて、隠すつもりはなかったんですが、必要ないと思いまして、言わないで入社しました、
今の仕事ですね。でもそのうちに、今はもう話しました。というのは全然支障がないからです。今の仕事をしていて他の人よりも誰よりも多分一番元気だと思うんです、自分で。みんなからも一番元気って言われてますので、今の仕事はまったく差し障りがありません。ただ、トイレの回数は1日今は下痢が10回前後はあるんですが、そこは自由にトイレに行ける状況なので、それは心配ないです。あと、お店がすごく忙しいときは全然トイレに4時間も5時間もいかなくてもすむんですね。ですから全然大丈夫です。
Q:そうすると最初は病気のことはおっしゃらずに採用されて仕事を始めたんだけれど、今は公表されているということなんですけれど、最初の段階で特にトイレの回数が多いとかいうことで困ったりということはありませんでしたか。
最初からそれは全然ありませんでした。トイレも自由にすぐ行ける状況のところですので仕事場が、それは大丈夫です。
診断時56歳、インタビュー時61歳(2012年2月)関東地方在住。2007年に潰瘍性大腸炎と診断され、内科治療のあと手術。術後しばらくは大変だったが、現在は大変元気で障害者の働く、ふれあい喫茶で店長をしている。息子と夫婦と3人暮らし。
発病したのが4年前の2月で、その時に4月から介護の、私が以前からとってもやりたかった仕事で、正社員としてかなりやりがいもある仕事を4月から任せられる予定だったんですが、3月に入院してしまいまして、それでもそこで少し待ってあげようって言ってくださって、病院に入院しててもすごくやきもき、気が気じゃなかったです。もういつ治るんだろうとか、先が見えない状態で、その時の主治医の先生に何度か詰め寄って、何月に退院できますかって聞いたんですが、全然わからない状態で、全然回復の見込みがない状態だったんです最初。
それでも職場の方で待っていただいて、じゃあ10月から正式にという形で待っていただいたんですが、やっと10月1日から入りまして、結局10日しかもたなくて、また10日に入院するはめになってしまいました。その時はかなり落ち込んで、この先どうなっちゃうんだろうと本当に不安でしたね。
診断時56歳、インタビュー時61歳(2012年2月)関東地方在住。2007年に潰瘍性大腸炎と診断され、内科治療のあと手術。術後しばらくは大変だったが、現在は大変元気で障害者の働く、ふれあい喫茶で店長をしている。息子と夫婦と3人暮らし。
Q:食事は特に何の制限もなしですか。
食事は何の制限もしていないですね。お酒も飲んでますし。ただやはり油ものとかお肉とか食べるとさらにトイレ近くなりますね、お酒も。でもどうせトイレ近いんだから、いいやって感じです。トイレの回数が多いのでノイローゼになった時もあるのですが、今はよく考えて便秘しなくていいわぐらいに、あの介護の仕事、老人介護とかやってると、皆さん歳とると便秘で悩んでいる方すごく多いんですよね。それを思えばそういう悩みは私はないからいいと思わなきゃっていう気もしますね。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
Q:この手術をされたことが、ご夫婦の生活、性生活に影響したということはありますか。
それはないと思いますね。もちろん、手術したあと、1日に30回も40回もトイレ行かなきゃいけない。要するに、常に便意を感じているような時っていうのは、そういう気には全然なれないわけですから影響はあると思いますが、それは他の病気と同じで、その間はもちろん違いますけれども。通常の生活ができるような状況になった場合には、そういう影響はないと思いますね。
ただ、人工肛門に関してはあると思います。ですから、人工肛門に関しては、私はトータルでも1年しかやってませんでしたので詳しくはわかりませんけれども、ただ、例えば水泳なんかでもできるんですね。人工肛門してても。ですから、温泉入ったりとかもお風呂入ったりとかもできるんですけれども。そういう用に、ちょっと小さめの人工肛門もあるんですね。そういう物を使えば、何て言うんですかね。そういう夫婦生活もできるという話は聞きました。ただ、人工肛門を外してしまったあとは、これはもう全然問題ないと思います。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
それと、もう一つ。一つあるとすれば、私は暇だったので、便の回数を記録したんです。1日、正の字を書いて、それをグラフにして、日々の折れ線グラフにしたんですね。それと1週間単位の1週間の平均を出して、それもグラフにしたんですね。そうすると、日々のグラフっていうのは、特に最初の頃は、30回が次の日25回になって次の日また35回になってとか激しく動くんですけども、1週間の平均で見ると確実に右肩下がりになるんですね。もちろん、若干増えることもあるんですけれども。殆ど右肩下がりになってました。それ、あとでわかったことなんですけれども、確実にやっぱり減ってるというのが、目で見て途中まで来たらわかるわけですね。
で、そういう回数を付けてグラフを作って、そういう作業をやることによって、ああ、これはあと1ヶ月経てばこの辺まで来るなとか、そういうこともできますので。そういう、あの記録を付けたのは良かったかなと。それから、あと、本当に苦しい時は文章を書くこともできませんでしたし、本を読むっていうのも集中できないので殆ど読めなかったですし、テレビを観るのも辛かったですね。一番楽だったのは、やはりラジオですね。ラジオをよく聞きましたね。なので、何か記録を残すことはできなかったですけれども、多少落ち着いてからは、ある程度、記録を残すようにしました。薬の量とか、それから、便の回数は最初から付けてたんですけれども。あと、身体の調子ですね。これも、やっぱり、日々を見ると良くなったり悪くなったりあるんですけれども、やっぱり1週間単位とかで見ていくと確実に良くなってる。その辺、今日は調子良かったとか、日記的に記録を残すと、今日、鍼を打ったとか、あんまり効果なかったとか、そういうようなことをある程度、記録に残しました。あとになって読み返すと、ああ、こんなことだったんだなというのがある程度わかりますし、それは、最終的に、いわゆる闘病記のような形にして患者会の会報にも載せてもらったりとかしたんですけれども。ほかの方の参考になるかならないかはちょっとわかりませんけれども、自分自身では、やっぱり、そういう記録を残したっていうのは良かったかなと思ってますので、皆さん、ほかの方にもそういうことをお勧めしてはいます。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
Q:やはり、この病気、特にその術後の状態だと思うんですけど。一番辛かった。それがやっぱり自己イメージって言うか、そういったものにも大きな影響を及ぼしたっていう風に感じられますか。
自己イメージっていうのはどういう?
Q:自己イメージって言うか。自分の自信とか、あるいは男性としての自信とかっていうような部分に何か影響があったと思いますか。
そうですね。そういう風な考え方をしたことはないのでよくわからないですけれども。そうですね。今まで、それまでの病気するまでっていうのは、割と特に大きな病気もしなかったですし、社会生活の中で大きな挫折とかそういうことを経験したことはなかったものですから。いわゆる順調に来たというか。大きなトラブルもなく生活してきましたので、そういう意味ではちょっと考え方が変わったかなという部分はあるかも知れませんね。
Q:変わったというのは。
うん。やっぱり、色んなことが、人生には色んなことが起こるんだなと。(笑)確かに、手術っていうのは大変だったし辛い経験ではあったんですけれども、そのこと、病気をしたことによって、今まで会社人間って言うか、普通、日本人の平均的なサラリーマンと同じように、会社の生活が殆どだったんですね。病気をしたことによって、家に一時いる時間もあったりして、その時に、私、今、マンションに住んでるんですけれども、そのマンションの人たちと交流ができたり。それから、一番大きいのは、患者会という今まで経験したことない組織というか、人間関係ができたりしましたし。で、その患者会を通して、また更に色んなところで人とのつながりができてきたり。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
Q:それは、その復帰しようと思えたのは、回数が減ってきてそろそろ大丈夫かなっていう判断ですか?それとも、例えばお医者さんと相談されてっていうようなことだったんでしょうか。
いや、もうお医者さんは、仕事して良いとか悪いとかっていう状況ではなかったので、お医者さんからは特に何も言われませんでした。要は、最初1ヶ月ぐらいでちょっと会社行ったんですね。で、行ったんですけれども、仕事にならないんですね。もう1時間おきぐらいにトイレ行かなきゃいけないし。それから、普段の時も、もうやはりトイレのことが気になっちゃって仕事に集中できない状況なんですね。それと、やはり動き回るのが駄目なんですね。動き回るとどうしても便意が出て来てしまうので。じっと座ってる分には割といいんですけどね。でも、いくら事務職とはいっても、やはり、会社の中であっち動いたりこっち動いたりしますよね。ちょっと書類を取りに2~3歩動くという。そういうのも辛いんですね。なので、ああ、これはちょっと仕事にならないなと思って、もう一度休ませてくださいっていうことで、そのあとまた2ヶ月ぐらい。
(その後)何とかなるかなっていう時に、最初はだから半日勤務でスタートしたんですけども。私の場合は、午前中が割と調子良いんですね。朝トイレ行って、そのあと、お昼を食べるぐらいまでが割と安定してたものですから、最初の頃は、その午前中だけ行って午後帰ってくるというようなところからスタートして。それで、最終的にフルタイムで戻れたのが3ヶ月ぐらい経ってからというような状況でしたね。
Q:ということは、その半日っていうのがどのぐらいの期間ですか。
半日っていうのは、そうですね。2週間かそこらでしたかね。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
Q:この病気になられたことで、ご家族との関係とかご家族がどのように受け止められたかとか、ちょっとお話いただければと思うんですけれども。
そうですね。この病気は、なかなか周りから見てわからない病気だと思うんですね。また、痛いとか熱が出るとかっていうことではないので、たぶん周りの人はなかなか理解しづらいと思うんですね。私の場合も、うちの女房は専業主婦なので、退院してからしばらく家にずっと居たんですけれども、面倒見てくれたんですけれども、やっぱり、最初の頃は特に、私も何て表現したらいいかわからないですね。苦しいんだけども痛いっていうのとも違うんですね。すごい便意が常に24時間って言うか。起きてる間は常に便意を抱えて、ああ、トイレ行きたいんだけれども行っても出ないだろうなとか思いながら。そういう状況なんですね。だからそれをどうして欲しいの?っていうのが自分でもわからないわけです。どうしてもらったら、例えば、背中をさすってくれたら楽になるとか、頭冷やしてくれたら楽になるとか、そういうのがないんですね。ですから、自分でもどうして欲しいってなかなか言わない。言えないので、家族もどうしてあげたらいいのかわからない。でも見てると、とにかく苦しそうで辛そうなんだけども何にもしてあげられないっていうような状況が、特に最初の1~2ヶ月続いてまして。
結局、会話がだんだん少なくなってしまう。たまにはやっぱり運動したほうがいいんじゃない?運動って言うか、外、散歩ぐらい行ったほうがいいんじゃない?とか言われて行くんですけれども、駄目なんですね。もう100メートルも行かないうちに戻って来てしまって、もう家にずっと閉じ籠もってる状況でしたから、会話もどんどん、どんどん少なくなる。その時に、女房がついにキレて、何か言いなさいと。(笑)何にも言わないんじゃわからないと。何かやって欲しいことがあったら言ってちょうだいと。私もその時に、ああ、そう言えば何も言わなかったなというのを感じて、それから色々話をするようになりました。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
そうですね。もう本当にその時は、人工肛門に戻してくれと言って先生に何度か泣きついたこともありましたね。先生は、もうちょっとすれば良くなるから、もうちょっと我慢しましょうというようなお話だったんですけれども。ただ、現実に、どうしても上手くいかないとか、それから、特に、つないだところが上手くつながらなくてそこからまた炎症を起こしたりとか、そういう場合には、また人工肛門に戻すという人も実際にはおられるらしいんですね。ただ、トイレの回数が多いから人工肛門に戻すというようなケースは今までなかったということで、もうちょっと我慢しなさいということは言われたんですが、じゃ、いつまで我慢すればいいの?っていうのがわからないわけですね。
その時、たまたま、患者会を紹介していただいて、今、そこの患者会の役員もさせていただいてるんですが。その時に、たまたま私と似たような症状の方がいて、私の3ヶ月ぐらい先をいってる方がいたんですね。その方を紹介してくださって。電話をして話を伺ったんですね。そしたら、私がこんな状況で、非常に、今、苦しいんですっていう話をしたら、その方が、もう、あなたがおっしゃることはとてもよくわかりますと。もう、まさに私も3ヶ月前、そういう状況でしたと。だけども、今は回数も徐々に減ってきて、もう苦しい状況を今、脱したところです。あなたもあともうちょっとですから、がんばれば確実に良くなりますという話をしてくださったんですね。それが非常に何て言うか。自分にとって勇気を与えてくれたと言うか。もうちょっと、もうちょっとだという気持ちにさせてくれましたね。
診断時:22歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、主婦で、家族はご主人とお子さん(11ヵ月)。大学卒業時に発症、母も潰瘍性大腸炎。治療は漢方中心。潰瘍性大腸炎について理解ある、現在のご主人と巡り会い結婚、そして、病気をかかえながらも男の子を無事出産。現在、育児奮闘中で、二人目のお子さんもいずれと考えている。
妊娠してからなのですけども、妊娠がわかった時には再燃していたので、腹痛と下痢と出血があったので、やっぱりトイレに行くとどうしても腹痛があるので力んでしまうのですけども、力むと赤ちゃんにも良くないと言われたので、でもそこがどうしようもなくて。(妊娠)初期に再燃も一番ひどくなっていたので、その時が一番心配だったのですけど、ずっとやっぱり腹痛は少なかったのですけど出血は続いていたのですね。出血が続いていたので貧血があって、週2,3回鉄剤を打ちに行っていたのですけど。やっぱり妊娠の時にお腹の状態、赤ちゃんって見れないから、薬をペンタサとペンタサ注腸もやっていたので、「どこか奇形があって生まれるのじゃないか」というのがすごく頭にあって、毎回診察の時に産婦人科の先生に「ちゃんと手ありますか?ちゃんと足ありますか?」というふうに聞いて、内臓がだんだんできてきて見えるようになると「内臓も大丈夫ですか?心臓とかも大丈夫ですか?」というふうに毎回お聞きしていたのですけども。
産婦人科の先生もその特にペンタサとペンタサ注腸で奇形になるということはないということでお話してくれていたのですが、やはり普通の人はお薬など何も服用せずに妊娠しているのに、自分は薬漬けで本当に大丈夫なのだろうかというのがあったのですけど、産んでみて五体満足で産まれたので、すごくそこはよかったなと思っているのですけども。やっぱり薬を飲みながらの妊娠だったので、その奇形が出てしまうのでは?というのが一番心配でした。
産んでからなのですけども、産んでから睡眠不足とか、産んだ時の痛さとかストレスがあって再燃するかもとは言われていたのですが、全く反対に下痢だったのが普通の便になって、まったく出血も出なくなって、反対に私は症状がよくなったのですね。ストレスとかも全然感じなかったわけではなかったのですけども、寝不足でも痛みに耐えれたのも特に再燃はしなかったので、これから出産される方もそんなに滅茶苦茶心配はしなくてもよいのかなと思いました。
診断時:22歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、主婦で、家族はご主人とお子さん(11ヵ月)。大学卒業時に発症、母も潰瘍性大腸炎。治療は漢方中心。潰瘍性大腸炎について理解ある、現在のご主人と巡り会い結婚、そして、病気をかかえながらも男の子を無事出産。現在、育児奮闘中で、二人目のお子さんもいずれと考えている。
妊娠が判明したのが、ずっと飲んでいた広島の漢方があるのですけども、それを飲んでてあまり効かないなという時があったのですね。広島の先生にそれを相談しても「とりあえず飲み続けてください。」というのが先生の指示だったのですけど、私はそれを飲み続けても一向に良くならないので自己判断で中止してしまって。今までお世話になっていた先生の方でまたペンタサを始めたのですね。それをしてもまだ出血は続いていたのですけども、1ヶ月ぐらい後に妊娠がわかったので、広島漢方は一切飲まずにペンタサとペンタサ注腸でしていこうというふうに決めたのですけど。出血はあるのですけども腹痛はそんなになかったので、そこまでひどい再燃ではなかったのですけど、やっぱり出血があることですごいマイナス思考になってしまいますし、お腹の赤ちゃんが、ペンタサも12錠ぐらい飲んでいたので大丈夫かなというのがあったのですが、先生も「ペンタサも赤ちゃんにはちょっと行くかもしれませんが、そんなに害がないので心配要りません。」ということだったので。もう自分がすごい悪化するよりは薬を飲んで妊娠を維持できる方が大切だなと思って、薬を飲みながら妊娠・出産をしようと決めました。
診断時:22歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、主婦で、家族はご主人とお子さん(11ヵ月)。大学卒業時に発症、母も潰瘍性大腸炎。治療は漢方中心。潰瘍性大腸炎について理解ある、現在のご主人と巡り会い結婚、そして、病気をかかえながらも男の子を無事出産。現在、育児奮闘中で、二人目のお子さんもいずれと考えている。
発症する前から今の主人とは知り合いで、発症した時は特に、友人の一人だったのですけど、2003年に発症して結婚したのが2010年なので、その7年間ずっとみてくれていた中で一番、病気に関しても理解を示してくれたり、ただ心配だけじゃなくて気を紛らわせてくれたりする人だったので、付き合い始めてからは、その結婚に関して一番ネックになるのは自分の病気だと思うのですけど、そういうところも一から話して、それを含めて知っているので、「全然いいよ」っていうふうに言ってくれていたので、結婚を決める一番の決め手は、その理解があることですかね。
診断時:22歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、主婦で、家族はご主人とお子さん(11ヵ月)。大学卒業時に発症、母も潰瘍性大腸炎。治療は漢方中心。潰瘍性大腸炎について理解ある、現在のご主人と巡り会い結婚、そして、病気をかかえながらも男の子を無事出産。現在、育児奮闘中で、二人目のお子さんもいずれと考えている。
母が同じ潰瘍性大腸炎なので、どういう病気かというのはわかっていたのですけども、やっぱり当事者になってみないと、全然やっぱり全くわかっていなくて、いざ(病気に)なってみると、お腹は痛いし、何も食べれないしということで最初はすごく辛かったのですけども。母がやっぱりわかってくれるので、すごいよい話し相手になってくれたり、気を紛らわせてくれたりというのが大きくて。私の1つ下に妹がいてるのですけども、ほぼ仕事がない時とか仕事が終わった後とか毎日のように入院している時は見舞いに来てくれて、話し相手になってくれて、すごい家族には助けてもらいました。
診断時:21歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、常勤の高校教師。大腸の全摘手術経験者。下痢が半年間続いたため、病院受診、検査ですぐに潰瘍性大腸炎と診断される。ステロイドで回復するも、止めると再発し、これを繰り返す。将来も考えて、手術を決断。術後の経過は、他の手術経験者と比較してもかなり順調な経過をたどり、その後、希望であった教師の職に就く。
私は病気になってから割りとすぐに患者会に入りました。例えば、手術など治療方針を決めるときに患者会で得た情報が一番大きかったように思います。患者会には専門の医師が来ていただいていましたので、すごく的確なアドバイスがいただけましたし、同じような状況の人がたくさんいたので、患者会がなかったら、こんなに早く私は病気から解放されることはなかったなと思っています。インターネットなどでいろいろ情報を調べることもできたのですが、やはりいろんな情報が雑多な状態でありますので、どれを取ったらよいのかもわからないような状況でした。患者会では実際に会って、生の声が聴けますので、すごく説得力があったり、信憑性がある情報がたくさん聞けましたので、やはり直に会って患者同士で話すということは、すごくメリットがあることだなと思っています。
診断時:21歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、常勤の高校教師。大腸の全摘手術経験者。下痢が半年間続いたため、病院受診、検査ですぐに潰瘍性大腸炎と診断される。ステロイドで回復するも、止めると再発し、これを繰り返す。将来も考えて、手術を決断。術後の経過は、他の手術経験者と比較してもかなり順調な経過をたどり、その後、希望であった教師の職に就く。
面接の時など、(病気のことは)私は一切言いませんでした。正しいやり方かどうかはわかりませんが、就職が決まってから、実はこのような病気であるということを言うようにしていました。私の職業はちょっと特別で、教師ですので、生徒の中にも同じような病気をもっている子がいたりして、そういった意味で、そのような子たちのサポートにもなると思いましたので、就職が決まってからは生徒にも職場の仲間にもオープンにしています。やはり病気を出してしまいますと採用に支障があるかなと思いましたので、病気のことは伏せて、就職の面接には臨んでいたと思います。
Q:職場で病気のことをオープンにされて、プラスマイナスを含めて何かありましたか。
まず生徒の中に同じ病気の人がいたので、その子のことでよく相談を受けたりとか、病気をもっている子は潰瘍性大腸炎にかかわらず他にたくさんいますので、そういった子たちの気持ちがすごくよくわかるということがありましたので、何か病気のことで困った時は自分も交えていろんな会議があったりとかするようになりましたので、私の職業にとっては、そんなにマイナスにはなっていないと思います。
診断時:43歳 インタビュー時:54歳(2012年4月)関西地方在住。看護師。発症して11年、サラゾピリンやステロイドなど薬の副作用に悩まされることもあったが、経験から、ストレスや過労からくる再燃を避けるようにして、看護師の職も続けるように努力している。循環器系などの病気もあり、それと潰瘍性大腸炎とのコントロールに困るときもある。元気なときは、患者会活動など、人を支援する時間に使うようにしている。
私が潰瘍性大腸炎を発症した頃に比べて今はすごくネット社会なので、皆さん、ネットですごくいろんな情報を仕入れてきているのですけども、ネットもすべてよい情報とは限りません。やはり患者会に来られて、いろんな人の話とか、それから実際に同じ状況におられる方の心配や悩みを抱えてどうしようと思っている方がお互いに助け合える、支え合えるというのがあって、また専門の先生とか、それからなおかついわゆる社会支援と言われる、例えば社会労務士さんが来たりとか、心のケアというかたちで音楽をしていただいたりとか、栄養士さんに来ていただいたりとか、直接自分の身近なところでいろんなお話や交流ができて、ネットにはない、自分の療養生活や日常生活にプラスになる、自分たちで良くしていく会だと思います。また、患者になって初めてわかることで、少しでも自分たちの生活をよくしていこうということで、患者会が連携というか連帯というか、皆でまとまって行動しているということも非常によくわかりましたので、そういう意味で、自分たちの生活を少しでも良くしていこうと思ったら、やはり患者会に入って、患者会の活動を皆で支えあっていくのが大事なのじゃないかと思いました。
診断時:43歳 インタビュー時:54歳(2012年4月)関西地方在住。看護師。発症して11年、サラゾピリンやステロイドなど薬の副作用に悩まされることもあったが、経験から、ストレスや過労からくる再燃を避けるようにして、看護師の職も続けるように努力している。循環器系などの病気もあり、それと潰瘍性大腸炎とのコントロールに困るときもある。元気なときは、患者会活動など、人を支援する時間に使うようにしている。
患者会に行ったら、やはり自分の今の状況がどういう状況かわからなかったり、情報がどうしても乏しいので、情報を知りたい方、それから逆に長年患者会で活動されていて支援されている方、それから専門医の先生が熱心に外科の先生と内科の先生が交互に来てくれて、いわゆるセカンドオピニオンを無料で聞けるし、自分たちで助け合ったりできるので、すごく患者会はいいところだなと思いました。しんどかったけども、もっと早く来ていれば、一人でもがいていた時期がもっと早く救われたのではないかと思いました。なので、自分が少し落ちついて、患者会の中で逆に今までお世話になったことを皆さんに少しでも返せたらいいなと思って、お手伝いしようと思っているのですが、いまいちもうひとつできていないのがちょっと残念です。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
どこに行くにしても、トイレチェックはすぐにするようになりました。子供らもだんだんわかってきて、「お父さんに聞いたら、どこにトイレがあるか知ってるで」と。どこ行くにしても、通った道にトイレがあったら、バックするようにする。警察署も入るし、消防署も入るし、コンビニも入るし、スーパーでもパチンコ屋でもどこでもトイレのあるところはチェックするようになって。トイレのないところにはだんだん行けなくなってきたんですよね。
今までは子供らとハイキングに行ったりとかしてたんだけど、山はだんだん行かなくなりました。やはりトイレがないということで。今平気にしていても5分先はものすごい下痢になってトイレに駆け込まないとあかん状態になると。その時助かったのが、今オムツが、恥ずかしい話なんだけどもオムツをして出るようにすると割と安心感が得られるんですよね。今、結構高性能なオムツ、大人用のはくパンツ状のオムツがあるんで、オムツをはいてもズボンをはいてたら、そう違和感がなくはける。だから、オムツを着用するようになって返って安心したのか、そんなに外に出る時にはくことによってトイレの回数が少なくなるんですよね。
「行けない、行けない」と思うとね、余計にトイレに行きたくなっちゃうんで。オムツをしていると、「まあ、いいや」、「いいや」じゃないけども少しは保つんで、後は綺麗にしたらいいことなんで、妥協できるということで、オムツをはくようになってから、ちょっと行動範囲が広くなって、調子が良い時はもちろん行くんですけども。車でも高速で渋滞するとか、そういった時間帯には一切出歩かなかった、やっぱり渋滞するとトイレとかサービスエリアとか行けないんで。特に渋滞する時は乗らないようにはしているんですけど、車は。オムツすることによって、すごく安心感が得られるようになったんで出歩けるようになりました。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
病気になられたからといっても、まだまだそのような死ぬような病気じゃないので、直接それが死に繋がるような病気じゃないから、そんなに落胆しないで前を見て明るく付き合っていこうという姿勢で、やっぱりこういったことになったんだから仕方ないんだから、付き合っていかないとダメですよね。
それから、病気の薬によっていろんな副作用があるんで、そういったことにも対処していかなければいけないし、あまり落胆せんと前を向いて、いろんな情報が今、飛び交っているけれど自分の一番、人によって症状が違うんですよね、薬も合う合わないもあるし、何でもそうやけども同じ症状というのは皆ないです。悪い人もおるし軽い人もおるし、合う人もおるし合わない人もおるし。食べるものも人によって違う。だから、自分の合った方法で最善の方法で、じわっと急がずゆっくりすることによって、だんだん気も休まって治療になって改善していくやないかと思っています。だから、あまり落胆せんと、時が解決してくれるというか、自分自身も知識を増やすことによって、いろんなことをすることによって、食べれるものは食べたらいいし、下痢でひどい時はもうじっとしといたらいいとか、できることを少しずつやることによってだんだん改善していく病気じゃないかと、僕はもうこれからは治る病気だと思っています。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
私の場合は、一人で自営業だから、他に代わる者がいないので、その間休業ということになってしまう。2ヶ月経って退院して仕事を始めたんだけども、以前のような仕事は入ってこないんですよね。すべてお客さんが逃げてしまっているんです。そこからまた色々連絡してやり直すまで、1年経ってやっと半分ぐらいの収入になって、そこからやっと3年経って以前と同じ様な仕事量に今、戻っているわけなんですけども。だから病気になって入院することができないなと。入院したら今度は家族全員が路頭に迷うんじゃないかと。そういうことで、病院の通院は必ずしますけども、入院だけはずっと拒否しながら、すごく悪くなった時期が何回かあります。
最初入院したときと同じ様な時が私の場合はね、普通で下痢が20回ぐらいが当たり前になってきて、小さい時から下痢が多かったので、1日10回以上が当たり前で、20回とか、行くときは50回ぐらいとか、1日の2/3はトイレの中にいて、夜も寝れない状態で下痢・下血のときも入院を拒否して、毎日というか2日か3日に1回点滴だけ、栄養を入れないとダメなんで点滴だけしに行っていました。入院すると、仕事休んだら取り戻すことができないという関係でそういったことになっているんですけども、なかなか患者として自由に入院もできない。ただ通院だけは夜にやっていただけるので、特に近くの町医者で点滴というのは割と自由がきいて、たいがい7時までなんで、点滴1時間かかるので、5時半か6時に行ったら1時間かけて点滴して帰ったら、それからまた仕事をする、そういった状態を続けています。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
治らない病気になってしまったんだと、それならこれから生活はどうなっていくのか、家族はどうなっていくのか、もうすぐ死ぬんじゃないかと。そういったことが家族の頭によぎって、子供らでも、その時、発病した時は小さかったんですけども、「学校に行きたくない」とか、そのようなことがありました。お父さんはすごい重い病気になってしまった、で、治らない病気だと。内容がわからないんですよね。医者から言われたことを僕は家族に話したわけですけども、治らない病気になってしまったということを言うことによって、これから先どうなっていくんだという落胆的な家族の思い、知識がないからそうなるんですけども。そうなって食事とかがダメだと、あまりにも下痢がひどいから外に出られないと。そういうことで家族は、僕自身もそうですけど、すごく落胆、失望的な、将来に対して失望的な負の思考しか生まれてこないですね。何もかも悪くなっていくような気持ちがあったんですけども。
そういった時も家族が支えて、なるようにしかならないからということで過ごしてきたわけですけども。だんだん内容的なことというか、知識というか、これはすぐに死ぬ病気じゃないんだと、死とかそういうことは関係ないんだからと、ただの身体の症状として付き合っていけるものなんだというふうにだんだんと変えるようになってから、家族もみんな普通の風邪的な、まあ風邪じゃないんだけども普通の病気と、長い病気だと思って付き合うようになって。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
初めは病院の先生というか栄養士の言うことを守っていて、退院してからも言われるようなものしか食べなかった。柔らかいものとか(食べて)、肉類は一切食べないし、キノコ類は食べないし、こんにゃくも食べないし。もう食べれないものばっかりで。主に食べてたんが、大好きだった蒸しパン。「蒸しパンはいいですよ。ただ、裏側にいろんな添加物があるから、添加物のない蒸しパンを食べて下さい」ということだったので、日々、蒸しパンとか食パンを食べたりとか、それもあまり添加物のないものを食べる。そういうのを1年間していたんですけども、
それやってても結局腹痛とかなって、だんだんと普通に食べるようにして、しんどくても食べるようにしていたんですけども。家で食べるということは、子供がうちは女の子3人いるんですけども、やっぱり油っぽいものとか何でも食べさせてあげないといけないんで、僕の料理と2種類作らなければダメなんですよね。だから家内にもだいぶ食に関してはすごい苦労をかけたなと。だんだんと薄味になっていくようになって、子供らも家族全員がだんだん薄味で、あんまり油っぽいものが出なくなったと。2食作るんやったら1食でと。こちらもそれなりに今まで油っぽいものとか揚げ物とか拒否してたものがだんだん食べるようになっていったのと、そんなに先生の言うことを守らなくても自分の体調を維持できるやろうし、何を食べても悪くなるときは悪くなるんだという勝手な考えで、最初の頃はお酒も飲まなかったんだけども、だんだん飲むようになってきて、ストレス解消にまあいいだろうと。ひどくなるとやっぱり飲むことができないんで、それは自分自身で止めますけども、あまり悪くない時、本当は悪いのかもしれないけど、少量の下血ぐらいだったら飲んだりとかしています。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
この病気との今後ですけれど、今までは治したい、この病気と別れたいと言いますか、治したいと思ってたんですけれども、何かこの入院をきっかけにしてちょっと自分の中で変わったというか、ゆとりができたというか、今までは少食健康法ということで、これを食べずに治す、治したいがためにという感じで来ていたんですけれど、ちょっと視野を広げてこの病気と付き合っていこうというスタンスで、悪くなったらステロイドもまあ、ありかなということで、効くなら、それでまた後はうまい具合に切っていければいいかなという感じで、後はプロの医者の方に任せて医者の言うことを聞いて自分でも情報をちゃんと仕入れて学びながら、そういう風にしていって炎症を抑えていく、
どうしても仕方なく、大腸がんのリスクも高いですし、もしそういうふうになってどうしても手術しないといけないという時は信頼のおける外科の先生の方にかかってお任せする。後は運だとかそういうこともあると思いますので、先のことはその時に考えようということであまり取り越し苦労をしないようにして、今を精いっぱい、今好い状況にあるからそういうことを言えるのかもしれませんが、それでもまあそんなにばたばたしてもどうしようもない病気なので
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
とりあえず患者会に行って同じ患者の人の話を聞いてみようというとこで、軽い気持ちで行ってみて、するとすごく私が今まで、すごく大げさに考えていたというか、こんな下痢ひどくて生きていけないわというか、どこにも出れないと思っていたことが、みなさん当たり前のように、「そんなん普通やよ、病気やから下痢するのは当たり前やし」という感じで言われて、あ、そうなんや、で、仕事を持っていらっしゃる方は仕方ないから紙おむつで出かけるよとか、普通に話されてるのを聞いて、別にこういう世界に入ると、私は普通なんだという感じですごく気持ちが楽になったということで、それでまあ色々専門医の先生も来て、ふだん診察室ではそんなに長い間色んなことを根掘り葉掘り聞けないんですけれども、時間も限られてますし、だけどそこではすごく普段疑問に思ってることだとかそういうことでも、外科の先生あと内科の先生もいらっしゃるのでその時その時に自分が疑問に感じたことを答えていただいたり、納得いくまで答えていただいたりということがあったので、すごく、なんて言うんでしょう、気持ちが楽になった。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
その時はトイレのことがすごく頭の中にあって、下痢、トイレどうしようとか思った時点でお腹も痛くなったりトイレに走らないといけない状態になってしまってたので、一時は心療内科で過敏性腸症候群っていうんですか、そういうのもあるかもしれないということで、心理療法というのも受けたこともあるんですけども、あまり変わらなくて、やはり仕事を辞めて1年半くらいは、近くのスーパーにも買い物にも行けないくらいの、心理的にもちょっと病んでいた。
そういう状態が一時あったので仕事はもう続けられなかったので、やはり迷惑をかけることになるので、いくら周りが理解があると言っても、それで仕事は続けられなくて、まあ専業主婦でいられる立場というか、そういう環境にありますので、それに甘んじてというか、仕事は今はもうする気はないんですが、今だったら本当に紙おむつはいてでも好きな仕事があればできるくらい、だんだん病気ともうまく付き合っていけるというか、下痢ともうまく付き合っていけるようになったんですけれど、その当時は仕事に関して柔軟な態度がとれなかったというか少し反省するところではあります。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
もう簡単な事務だったので、どちらかというと電話番程度に居ればいいけどもそのかわり休まれたらちょっと困るよというような職場だったので、少々熱がでたりとかそういう時でもとにかく仕事というか会社に出て座っていればいいよという感じで行けたのがラッキーというかよかったんですけれど、事務所の中もみなさん外で、お昼間というか普段は出ているので、私がほとんど一人事務所に居るという状態だったので、トイレに何回行こうが下痢をしていようが、しんどい顔をしていようが大丈夫という、すごく恵まれた職場だったので、すごく長く続けられたんですけれども、やはりだんだん症状がひどくなってきて、下痢が頻繁におこって、洩らすっていうんですかね、すぐそこのトイレも間に合わないという感じがあったりだとか、ちょっと外に出かけたりとかする用事の時でもそれができなくなったりするぐらいひどくなってきたので、さすがにこれではちょっといけないということで、今だったらもう少し病気に対して視野も広く考え方も歳とともに広くなっているので、今だったら多分紙おむつはいてでも仕事を続けられたと思うんですけど、その時はまだ30代で、若かったので、やはり出先とかで便が漏れてしまうということがすごくショックで、それが頭の中一杯になってしまうというか、もう駄目だという感じでどうしても仕事は続けられないということで仕事を辞めてしまいました。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
もしかして外科的な手術も考えていたので長くなればということで、親離れ子離れができなかったんですけども、でも結果良ければすべてよしじゃないですけれど、逆に入院して離れてみてお互いに家族のきずなとか言いますか、離れてみてわかることというのも色々ありまして、良かったなという感じでお互いに感謝もするようになりましたし、やはり親離れ、子離れしなといけないですし、こういう病気だったということを娘もなんかわかったような気もしますし、普段はやっぱり家にいると、そんなに病人という感じはないと思いますので、それはやっぱりいたわりの気持ちも出てきたような気もするし、逆に入院してよかったなという感じで、家族のきずなも病気によって深まったという感じはします
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
私の場合はなんていうか、(子供が)一人娘だったので発症した時がまだ保育園に預けていて、私も仕事をもっていてという状態だったので、なかなか入院ということに踏み切れなくて、家族に対しても何というんですかね、まだ子供も小さいので入院して母親がいないと不安になるという、まあ兄弟がいれば多少ましだったのかもしれないですけれど、そこでなるべく通院でということをお願いして、ずっと入院はしないで頑張ってきました。
なので、ステロイド、ステロイドって言う感じで頼ってしまったという悪い面もあるんですけれど、でもやはり小さい子供に母親の病気っていうことを理解してほしいというのは無理だと思っていましたので、やはり母親がいないといけないということで頑張ってきたので、それはもう今から思えば仕方のないことだったと思うんですけれど、それがずっと続いてきてもう娘は今年で22歳になるんですけれど、それでも今回入院の時でも、やっぱり入院しないでという感じでさみしいということを表現してくるので、やはりずっと我慢して、始めは医者にも入院した方がいいよという感じでもう半年くらいですかね、もうだいぶ前から入院を勧められていたんですけれど、だましだましというか、まあ色々することもあったので、しかたなく頑張ってきて、もう最後全部片付いた時点でどうしようもなく入院してしまったという感じになったんですけれども、
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
今現在同じ病気で悩んでいる方、あしたをどうしよう、この後の人生をどうしよう、まあ、あの、思い悩み過ぎてうつになったり、人生投げ出したくなったりすると思うんです、絶対に、ま、僕もそうでしたんで。ただ、常に希望は捨てないで前を向いていけば、必ずちょっとだけでもいいことがあると思うんですよ。で、ま、医学の進歩も目覚ましいし、新しい治療法や治療薬も出ていると。で、そこで自分をあきらめない、ただそれだけだと思うんです。
普通の人でも簡単に自殺してしまう。ましてや僕ら、病気を持っている人たちは、あの、常に死というものに対して、ま、入院していれば分かると思うんですけども、常に、その、死ぬってどういうことなのかなと考えてしまうんです。昨日まで元気だった人が次の日もう亡くなられてしまう。もしかして僕もそうなんじゃないか、わたしもそうなんじゃないかと、絶対思うと思うんです。ただ、あきらめないっていう気持ちは、必ず心のどこかに持っていれば、まあ、今現在つらい思いしている方には、何言っているんだと思われるかもしれないですけども、いつか必ず、ああ、そういうときもあったなって、思えるときが来ると思うんです。だから決して、簡単な気持ちで自殺を考えたりとか、人生投げ出してっていうようなことをしてほしくないんです。これは本当に声を大にして、これからも、まあ、僕が元気であるかぎりは、あの、いろんなところでそういう言葉を発していきたいなと思っています。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
一日目、職場に行ったところ、まだ4月だったんで、まだ寒いんですね、工場みたいなところだったんで。体がやっぱり思うように動かなくて、お腹も痛くなるし、で、これはもうみんなに迷惑が掛かると思って、職場の人にちょっとすいませんと、用事が急に入ったので、今日はこれで早引けしてもいいですかと。で、たぶんかなり悲愴な顔をしてたんだろうなと思うんですけども、その職場の人は、ああ、じゃ、大変そうだからいいよと言ってくれまして、そのまま家に帰って、布団の中に入って体を休めながら、なぜか知らないけども、涙がポロポロ、ポロポロと。せっかく決まったいいチャンスなのに体が付いていかないと。
で、気持ちとは裏腹にそういう体の不都合があって、どうしてこんなことになったんだろうと、一時間ぐらいですかね、泣きっぱなしで。で、夕方になって妻は帰ってきて、ただごとじゃないと、で、どうしたんだって言われて、また泣きながら、いや、実はこうこうこうで、たぶん無理だと、どうしようと相談したところ、あの、あなたの思うとおりにしてくださいと、体が大事ですからと言われて、結局次の日に、あの、社長さんのところに行って、申し訳ないと、体、やっぱり体が付いていきませんと、まあ、当然怒られました。大丈夫だって言ったじゃないかと言われたんで、もうその時も泣きながら、申し訳なかった、もうほんとにそれしか言えませんでした。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
で、まあ、その今働いてるところも、何回も短い入院を繰り返してきたんで、そのたんびに上司に言うんです。「あまり僕はあてにならないので、この入院を機に、首にしてください」と、はっきり言うんですけども、「いや、君は良くやってくれているので、ゆっくり体を治してきてからまた職場復帰してください」と。ま、僕にとっては、すごいありがたくて理解のある職場で、で、それも何て言うんですか、仏の顔も三度まで、も、三度以上なんですけども。で、今回はちょっと長くなりそうだと、でもほんとにあてにならないので、あの、切っちゃってくださいと、解雇してくださいと言ったんですけども、いや、しっかり治療して、また戻ってきてくださいと言われまして。ま、その時また泣きましたね、ありがたくて。で、じゃ、あの、すいませんが、しばらく離れますと言って入院しました。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
先生にも相談したところ、君はまだ仕事は無理だと言われたんですけども、やはり何か収入を得ないと生活が成り立たない。で、正社員にこだわってたんです。正社員の方が安定しているし、給料も高いし、でも体がっていうそのジレンマですね。そして何て言うんですかね、しばらくは職安に行く振りをして、妻には内緒で、で、ボーっと海を見にいったりとか、で、家に帰って、妻が帰ってきて、今日どうだったと、いや、なかなかいいところがなくてねっていううそを結構ついてましたね。
ま、ほんとに行って探してもみたんですけども、やはりこういう体なので、なかなか条件に合った、自分の条件に合った職場がないと。で、でも妻には心配掛けさせたくないっていう、変なプライドもあったんで、ま、うそをつくしかないのかなという感じで、しばらく続いたんですけども、ある時に文房具屋さんに買い物に行ったんです。で、そこで中学の時の同級生に出会いまして。「今どうしてんの?」、「いや、実はこういう病気で仕事ないんだ」って言ったら、「ちょうど今、空きがあるから来てみないか」と言われまして、面接を受けたところ、じゃ、リハビリのつもりで、しばらく来てみませんかということになって、行き始めたのが今の職場です。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
そうですね。まだ、その、大腸全摘する前は、どうしておれだけこんなことになるんだと、まあ、妻にも八つ当たりは何回もしました。で、ま、普通ならそこで離婚かなと思ってたんですけども、何かけなげにもじっと耐えて、ずっと黙って付いてきてくれたと。で、たまにそのころを振り返って言うんですね、まあ、いつでも見捨てれたんじゃないのと。こんな病人よりも普通の健康の人とって言うと、怒るんですよね。で、でも普通そういう考えなんじゃないのって言ったら、あのころのあなたは荒れていたと、でも自分で気付くまでは何も言わんって決めてたらしいです。で、何かそれを聞くと、ああ、やっぱり妻なしでは、おれは生きていけないんだなと、つくづく何かありがたいっていうか。人間って一人では生きていけないんだなっていう言葉ありますけども、まさにそうですね、妻の支えがあって、まあ、周りの看護師さんとか、職場の方の理解とか、先生の助けとかがあって、僕は生かされてるんだなと。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
自分が患者会に、最初に求めたのは、えー、転勤に伴ってどこの病院に行ったらいいのか、誰に診てもらったらいいのかを知りたいということでした。それと、自分がこんなにつらい、ま、あまり回り道はしなかったと思ってますが、最初の病院の出会いは、やっぱり回り道だと思っていて、そういう回り道は、なるべく、あの、人にはさせたくない。なので、聞いてくる人がいたら答えてあげたい、それから知らない人には伝えてあげたい、そういう思いで、自分の知ってる経験や体験が、人に役に立つんならという思いで、この間、患者会に接してきているかなと思っています。なので、えー、いろんな人がいて、確かに調子がいい方もいる、で、手助けが要らない方は、あの、不必要と思うけれども、その方の経験が、今悩んでいる人やこれから悩むかもしれない人に、役に立つ部分があるんだなということを知っていただければと、そういう意味で患者会があるんだということを多くの人に知ってもらえればと思います。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
うんと、自分が、まあ、遊んでて病気になったというよりも、職場の中では、ま、課題を持って、あ、異動してくれと。で、単身赴任、ま、当時はしかも新婚ホヤホヤというときでしたけども、そういう中で行かせた人間が、ま、病気になったっていうのを、職場の方、特に上司のところで、ま、あの、仕事上の発病とは言わないけども、そういう気持ちで受け止めてくれていたのは、プラスの材料でした。
で、単身赴任から戻ってきたときにも、やはり、新規の事業に対する職場だったんですけれども、ま、ちょうどそれが、軌道に乗って、一年ほどたった後の入院ということで、ま、切りも付いたということだったんですけれども、そこで職場の配置替えがありました。で、外勤がメーンの仕事だったのを、経理という自分にとってみれば、まったく未知の分野に、え、肩書きだけは、その、当時課長でしたけども、そういう肩書きを背負っていくということで、この時は、配慮もうれしかったけれども、何も知らないのに短期間で、仕事を集中し、吸収しなければいけないということで、つらい部分とうれしかった部分とありました。で、経理に異動した後に、ま、座り机でしたから、えー、そこで、あの、エレンタールを日中飲みながら、仕事をするということでいくと、飲んでないと周りの女性が、あの、どうして今日飲まないんだという、チェック係りもしてくれたりして、あの、みんなの中では、あの、非常に助けられたなというふうにも思います。ただその経理の職場にいるときにも、2~3回悪化して、入院ということもしてしまったので、ま、そういう病気なのかなっていう、病気に対して、自分が受け止めなきゃいけない部分と、職場との関係では、あの、首にならないくらい、あの、ある程度専門性、なくてはならない人間という役割を果たすのと、入院してもなるべく早期に戻る、少なくとも、え、決算期を迎える前には、彼はいなきゃいけないということだけは、心掛けていたと思います。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
Q:はい。それからもう一つですね、ちょっと話しにくいタイトルなんですけれども、その病気、潰瘍性大腸炎がですね、その、夫婦の、性生活に何か大きな影響っていうのは与えましたか。
うーん、あの、与えてないと思います。あの、結局、体調がいいか悪いか、お腹が痛いときにその気にならないのと同じで、あの、特段ないですね、病人に対して無理をしないという話ですから。
Q:その調子がいいときには、特に普通の人と変わりないということなんでしょうか。
そうですね。あの、結果的に、自分は2人目の子どもは発病後ですから、子どもは2人、ま、3人目もできればいいかなと思ってて、いたんですけれども、なので、あの、薬のせいで子どもができにくい時があるということは、先生にも言われてたんですけれども、男性の場合は、そこは調子合わせればいいでしょうし、女性の場合は、あの、逆に、あの、妊娠期間が長いので、その期間を含めて体調維持ができる時を選べばいい、そういう意味じゃ、パートナーに理解をきちんとしていただくということが、大事だとは思いますが、あの、そのことで、無理になるとか、いうことはないと思います。自分の場合はなかったと思います。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
はい。家族にはとても感謝しています。特に、まあ、あの、かみさんとそれから子どもが産まれた後に、かみさんも働いていたんです、いたので、かみさんのお母さんが、仕事辞めて、それで同居してくれて、子どもの面倒も見てくれていたんですね。なので、あの、ま、病気であること以前に、われわれ夫婦を支えるために、ま、義理の母が非常に、その、仕事を辞めてまで、あの、われわれと生活を一緒にしてくれて、子どもの子育ての、かなりの部分を担ってくれたということが、一番大きいなと思っています。
えー、あともう一つ感謝するとしたら、あの、特にうちのかみさんは、根掘り葉掘り病気の状況とかどうなのということを、ま、聞かないで、ある意味、こう突き放したような状態で、接してくれているということも、気苦労がないという意味では、感謝しています。ま、なので、今はこれだけ全国の同じ患者の人や患者会で知り合った人が、一緒に会えるような機会があるときには、え、かみさんも誘って、こんな人たちと自分は今友達になってるんだよと、病気になって知り合うことができたんだよということは、なるべく機会を設けたいなというふうに思っています。
子どもとの関係では、子どもが育っていく過程の時に、3カ月とかっていう単位で抜けたりするわけですから、ま、寂しい思いをさせたなという、あの、思いはありますし。6回目の入院の時は、上の子どもが大学進学、下の子どもが高校進学の、え、時に重なりましたので、進路相談どうするかということは、病院に来てもらってしゃべった記憶があります。そういう意味じゃ、何らか、ま、子どもにも、あの、一緒に、接する機会が、大切なときに欠けてしまったかなという分は、ま、申し訳なかったなと思っています。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
Q:その薬以外の治療法っていうのは、何かされたことはありますか。
うーん、あの、医師から説明された治療っていうのは、ま、基本が薬を飲みましょう、それから、食事の取り方ですね。わたしの通っていた病院は、あの、やっぱり食事、特に脂肪の摂取量が、あの、病気を悪化させる、まあ、要するに腸が脂肪を、えー、吸収しようとするために活動が大きくなるので、ここを抑えることが大事だという、栄養科と内科が、バランスが取れた考え方をしていました。なので、栄養士の指導を受けて、食事療法という形で、食事について、潰瘍性大腸炎では、あまり脂肪物、あの、刺激物を避ける、え、脂肪についても、30グラムまでとどめるというような勉強会を、何度かやっていただいて、家族もそれを聞いて、で、食事については注意するようなことがありました。
Q:あと、あの血球除去療法とかそういうのは、されたことありませんか。
はい、あります。わたしの場合は、血球除去療法の中のGCAPというものでしたけれども、これは5回目ぐらいの入院の時に、一通り経験しましたし、7回目の直近の入院の時にも、わらにもすがる思いで、それもやりました。血管がちょっと出にくいというのと、体の中を、一回血を抜いて、また元に戻すというときに、戻ってくる血液が冷たいと、体が、非常におこりが起こったような震えが起こったりして、一度は、中止をしてもらったというようなこともあります。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
Q:何回も入院されたということなんですけれども、その間のですね、その、内科治療をずっと続けてこられたということですけれども、その内科治療の、ま、どんな薬を飲んだとかあるいは、どういう治療をされてこられたとか、その辺のところちょっとお話しいただけますか。
はい。最初は基本ステロイドでした。ステロイドの、大量投与で、まず寛解状態に持っていっていただいた。その後は、当時はサラゾピリンだったと思います、サラゾピリンを処方されて飲んでいました。ステロイドはその時で切れてると思います。ただ、あの、甘く見ていた部分もあって、かなり薬はサボっていました。で、定期的にもらいに行く分で、だいぶ余っていったという記憶はあります。
サラゾピリンの後に、ペンタサが出てきたときにペンタサに切り替えた。だから通院してるときは基本ペンタサでやっていました。何回目かの入院の時に入院期間が3カ月以上になって、絶食状態だったんですけれども、職場に復職しないと仕事のバランスが取れないということがあって、絶食状態のまま退院したことがあります。ま、その時にエレンタールを処方してもらって、えー、エレンタールのみですね、食事は食べずにエレンタール1日8包、で、経鼻でそのうち5包落とすと、という生活を3カ月ぐらいしました。その後、経鼻はなくなったんですけれども、基本はエレンタールを飲むと、朝食事で夜軽い食事、で、エレンタールを3包ないし4包飲むっていう生活を、年の単位で続けていました。
Q:あの、経鼻というのは、鼻から管を入れるということですか。
そうですね。あの、鼻から管を入れて、モーターで機械的に送ってもらうということです。あの、とても寒い所なので、あの、夜落としていると、朝方、その鼻から通っていく管の冷たさで、何度も目が覚めてしまったり、結構それは、寝不足になったなという記憶があります。
診察時26歳、インタビュー時44歳(2013年1月)女性 中国地方在住。長年にわたり一通りの内科治療をしたが改善しなかったので2002年に手術をして大腸全摘した。直後は腹膜炎を起こして大変だったが、現在は元気に暮らしている。家族構成は夫と二人暮らし。
仕事を辞めて、まぁ、たまにアルバイトをしながらとかだったんですが、うちの母が、割ともうあっけらかんとしたタイプの人だったので、それに引きずられる感じで。で、まぁ、それでもやっぱり、仕事はやっぱりしたいっていう気持ちがあったのでバイトとかをしてたんですけれども、そのたびにやっぱり悪くなって入院したりすることがあったので、もう周りからも、もうとにかく何もしないで、お食事もきちんと当時の低残渣食、食べて、家でじっとしてればいいんじゃないかと言われ、1年ぐらいそうしてみたんですが、
やっぱりそれでも再燃してしまったので、それなら楽しく好きなことをやって過ごして、悪くなるならまだしも、何もせずにこんなに良い子にしてるのに悪くなるのだったら、それは人生楽しくないなということに思いまして。もうそれからは特に気にすることもなく、好きな時に好きなことをしようと、割と吹っ切れて過ごしていました。なので、特にそんな悲観してっていうこともなく、あの、思い悩んでっていうこともなく過ごせていたのは、(笑)まぁ、自分では、まぁ、良かったのかなっていう風に思っています。
診察時26歳、インタビュー時44歳(2013年1月)女性 中国地方在住。長年にわたり一通りの内科治療をしたが改善しなかったので2002年に手術をして大腸全摘した。直後は腹膜炎を起こして大変だったが、現在は元気に暮らしている。家族構成は夫と二人暮らし。
Q:では、あの、えーと、手術後にご結婚されたっていうことで、パートナーの方とは、その病気だったり体調とかに関する、こう、あの、お互いの、こう、やり取りとかは、どんなことをお話されたりとかされますか。
特に私のほうが調子が悪いとかってそんなに言うこともなく。(笑)で、まぁ、夫も潰瘍性大腸炎の患者なので、で、まぁ、その気持ちもわかるんで。ただ、私とはちょっとタイプが違うところがあるので、同じ病気でありながら、え?って思うこともありますけど。そこは、まぁ、何とかコミュニケーション取ってるのかどうなのかわかりませんけど、(笑)感覚でうまい具合にいってるのかなっていう。
中国地方在住。長年にわたり内科治療を受けながら会社の仕事も続けている。ステロイドの副作用もでているが、まだ手術までには至っていない。患者会の仕事も精力的に行っている。家族構成は妻と二人暮らし。
平成11年の9月頃だったと思いますけど、あの、広島市の主催で、潰瘍性大腸炎の講演会というのがありまして。あのー、ちょうど休日だったんでですね、その講演会に、ちょっと、私、参加しましたところ、そこで私が、潰瘍性大腸炎の患者会作ってみませんか?という提案をその場でさせていただきました。えーと、そしたら、ちょうど、渡りに船だったんでしょうね。あのー、その講演会を主催をされていた、あの、広島市の担当者の方が、実はこれを待っていたんだよということを言われまして。まぁ、その方と一緒に、患者会の、いわゆる、準備というんですか…いうのを始めて、翌年、平成12年の3月になりますけど、あの、広島県の潰瘍性大腸炎、「すこぶる快腸倶楽部」というのを結成いたしまして。
それで、結構、いわゆる、フェイストゥフェイスの活動。あの、患者同士…まぁ、当時ですね、あの、もうインターネットというのはかなり普及しておりましたんで、必要な情報というのはインターネットのほうで、まぁ、取れるんですけど、やはり、あの、どう言うんですか、あの、嘘…嘘と言うんですかね。ちょっと、正しくない情報というのもやはりある中で、あのー、どう言うんでしょう。悪徳商売と言うんですかね。あの、人の弱みにつけ込んで、全く効果のないものを売りつける。そういったものも結構ありましたんで、それを、まぁ、防ぐのは、やはり、あの、患者同士が、きちんと顔と顔を付き合わせて話をしていく。これがやはり原点だと、患者会の、まぁ、原点だと、今でも、まぁ、思っているんですけど。そういった活動を、ずっと、まぁ、心がけていくのが一つと、
あとは、あの、やはり、病気のことをきちんと理解しないといけないということで、あの、お医者さんによります講演会。これは、まぁ、内科の話もあるでしょうし、外科の話もあると思う。そういったものを持ったりとか、あとは食生活。管理栄養士さんに来ていただいて話をしていただく。そんな活動をずっと、えーと、今現在まで続けているところです。
中国地方在住。長年にわたり内科治療を受けながら会社の仕事も続けている。ステロイドの副作用もでているが、まだ手術までには至っていない。患者会の仕事も精力的に行っている。家族構成は妻と二人暮らし。
この病気になった以降というのは、やはり、あの、職場の理解というのがやはり必要なんですね。あの、ある日、突然いなくなるというパターン、入院するというパターンが結構あるんでですね。あのー、当然、それなりの責任を持って仕事をしているんですけど、とはいえ、サポート体制というのも取っていただいております。といって、職場に、どう言うんですかね。余剰人員がいるとか、そんなことは今の時代ですからあり得ない話なんですけど。あの、迷惑をかけているという事実は、否定できないと思っております。私が今、自身、今時点で思ってる、ずっと、心がけていることは、やはり、私は、あの、健康で…健康でというのは、あの、入院しない状態でずっと仕事を続けていくことが職場に対する恩返しなんだという風なことをやはり心がけております。
ですから、あの、まぁ、今の上司に対しても、あの、当然、体調というのは逐次報告して。あの、逐次って、まぁ、悪くなった時ぐらいしか言わないんですけど、報告しながら、それで、当然勤務の配慮というのもしていただいたりとか。あと、通院の配慮、一応、うちの会社のほうでしていただいておりまして。あの、3、4週間に1回は、まぁ、病院、通院して1、2時間、2時間ぐらいですかね。ちょっと、あの、職場空けるんですけど、その分も勤務時間中に行かしていただいてる。
中国地方在住。長年にわたり内科治療を受けながら会社の仕事も続けている。ステロイドの副作用もでているが、まだ手術までには至っていない。患者会の仕事も精力的に行っている。家族構成は妻と二人暮らし。
両親、親なんですけど、やはり、あの、病気になってですね、発症した以降は、3、4年ごとに、まぁ、入院してるということについては、やはり、心痛めてるというのはやっぱりあったと思います。ただ、あの、私自身は、辛い時期、入院してる時があってですね。あの、ちょっときつく接するというのがある…あったんですけど、あのー、やはり、親にも心配かけてるというのはある…今でもあります。まぁ、当然、親子の関係ですので、心配をされるし、子どものほうはちょっと鬱陶しいなというとこもあるんですけど。
あと、まぁ、女房なんですけど、実は、女房も潰瘍性大腸炎の患者なんでですね、どちらかというと、病気に対する理解というんですか。それはもう、あの、素人に話すようなことではありませんので、素人に、病気を1から10まで話すという必要はありませんので、ちょっとお腹が痛い、下血したというと、大体、もうピンときて、ちょっと食事を、ちょっと、何ですか、消化の良いものにしようかとか。そういったような、もう、すぐ感覚的に理解する…できるんでですね、そういった苦労は特にありません。
中国地方在住。長年にわたり内科治療を受けながら会社の仕事も続けている。ステロイドの副作用もでているが、まだ手術までには至っていない。患者会の仕事も精力的に行っている。家族構成は妻と二人暮らし。
いわゆる、あの、低残渣。低脂肪低残渣ですか。その辺が過度に徹底されていたというんですか。いわゆる、白いものばっかり。鶏肉のささみであったりとかですね、豆腐であったりとか、あの、ご飯。当然、肉系はあんまり良くないだとか。当然、お酒も大好きなんですけど、駄目ですよという風に言われたりなんかして。あの、かなり、当時を振り返ってみますと、こんな生活よくやってたなというぐらい徹底したような。ある程度、管理したようなですね、食生活をしていたような気がします。
それで、そういった生活をして続けていく中でも、当然、まぁ、仕事をやっていかないといけない。それから、あと、あの、スポーツを私やっておりまして。あの、ゴルフとかテニス、ずっとやっておりましてですね。あの、まぁ、先生に聞いたんですけど、運動ってどうなんですか?って聞いたら、いや、それは問題ないよと。ただ、まぁ、下血してるような時、あの、体調が悪い時はやめてくださいねという風な言い方をされていたんで、あ、それならいいかということで、まぁ、テニスは、あの、毎週、土曜、日曜あたりですね。約半日ぐらいやったりとか。あと、ゴルフは、えー、職場の、付き合いで、月に1回、2、3ヶ月に1回でしょうかね。それぐらいやっておりました。