このサイトは潰瘍性大腸炎とクローン病の患者会の全国組織である、NPO法人IBDネットワークがNPO法人健康と病いの語りディペックスジャパンの許可を得て作成したものです
九州地方在住。10年前、19歳で大学浪人している時に発症し、なかなか診断がつかず大変な思いをして大学に入学。その後就職してからは寛解状態が続いていたが2014年の1月に再燃し、現在は食事も制限しているが、前向きに生きている。独身で一人暮らし。
Q:トイレの回数とかでですね、仕事中急にトイレ行きたくなったりとかいうようなことで、仕事に影響があるとかそういうことはありませんか。
今は活動期で、少し調子が悪くて、朝がやっぱりひどくて、今6~7回どうしてもトイレに駆け込んでしまうことがありまして、で、朝を過ぎて業務時間が始まってから夕方までにやっぱり調子が悪くて、1~2回ほどなんですけど行ってしまうことがあるんですけど、それは上司の人がいつでもトイレに行っていいよというふうに理解がありまして、それは大きな支障にはなっていないと思います。
Q:そういう上司の方の理解があるということはすごく助かると思うんですけども、一般的な仕事の中でやっぱりこの病気を持っていることによって、いろんな支障っていうか障害っていうのはありそうだなっていうふうに思われますか。
やはりこの病気というのは、見た目はほぼ健常人と変わらないということがすごいやっかいって言えばおかしいですけど問題で、調子が良いときはほんとに健常人と変わらない生活ができるんですけど、調子が悪いときがどうしてもトイレに行って、お腹は調子が悪いということがありますので、例えば仕事に関してもトイレにいけないような仕事もいっぱいあると思うんですけど、そういうときは例えばどうしてもその仕事をするしかないというのであれば、おむつとかをしたり、動き回るのは例えばお腹に刺激があるので良くないとすれば、例えばもう腹巻きとか体を温める、外での寒い仕事とかはホッカイロとかで体を温めるというふうに何かこう自分らしい対策を考えないとやっぱりどうしても悪くなってしまう病気なので、そういう面で、同じような健常人と仕事ができるということに関してはある程度難しいんじゃないかなと思うんですけど、やっぱりこう、自分が気をつけながら上司とこういう病気ですというふうに相談しながらすれば、できない仕事もあると思うんですけど、ある程度はできる仕事が増えるんじゃないかなというふうに思います。
診断時28歳、インタビュー時51歳(2012年7月)九州地方在住。寛解と再燃を繰り返しながら、3回の入院を含め長年にわたる内科治療をしている。潰瘍性大腸炎そのものでは、発病したときは全大腸炎型でかなり重症だったが、その後はそれほど重症になったことはない。しかし合併症としての関節炎や免疫抑制剤の副作用としての歯周炎などがひどい。職業は獣医師。独身。
仕事自体は獣医師で小動物で犬猫をやってるんで、それ自体は変わらないんですけれど、ま入院をして、入院が大体1ヶ月ですね入院すると、そうすると動物病院は個人経営なので、結局その間人が足らなくなるので辞めなきゃいけないっていうか、相手に迷惑にもなるので、入院したら辞めるっていう形でしたね。ま向こうも色々言ってくれるっていうのはあったんですけど、でもやっぱりどっちも辛いと思うんで辞める方が楽かなと思いましたね。
Q:3回の入院とも仕事を一旦辞めるっていう形を取られたんですね。
ですね。で、辞めた後はしばらくは働いてないんで、その間アルバイトとかっていうのもしたりしました。その時はどうしたらいいんだろうって思ったけど、若い時、その頃働き口があったんで、アルバイトなりなんかして何とか生きていけはしましたけどね。あとは、次のオファーがあって来てくれないかっていうのがあったので気が楽だったっていうのはありますね。
あともう一つ面白いのは、アルバイトをしててトラックの運ちゃんをやってた時が有るんですが、その時は夕方荷を積んで、夜中走って朝帰ってくるんですけど、その時肉体労働なので汗をかくんですよ。冬場だったんで、丁度冬場だし、あとは冷蔵庫、マイナス20度の冷蔵庫とか入ってて、その中でも汗をかいてた時が一番体調がよかったですね。だから、やっぱり労働と言うより運動の方が病気に対してはいいんじゃないでしょうか。面白いですね。
診断時、31歳 インタビュー時歳49歳(2012年7月)九州在住。行政の嘱託員。発病は31歳の時。大腸検査でふさがっているところがあり、32歳で始めての手術。約10年後に再発2回目の手術。翌年に入って3回目の手術で大腸を全摘した。一時(3ヶ月)ストーマをつけたが、現在はクローズド(閉じている)。家族は母、妻、犬4匹、猫1匹。
最初、手術をした時の仕事のところはですね、手術してすぐくらいは「大丈夫か」ってことであったんですけども、最終的には自己管理だぞ、ということで一切の配慮はなかったです。ただし、自分で管理してくれということで。勿論なんですけども、ただ、あの色々役職的な仕事が付いてきたりとか、責任がついてきたりとかすると、ストレスも溜まりやすくなって、なかなかこれは難しいなと。小さい会社だったのでなかなか逃れることもできなくなってくることも多くてですね、ストレスからも逃れることができなくなってくることだったので、このままだと自分の身がもたない、精神的に身が持たないなということで、そのとこは退職させていただくっていうか、辞めたんです。
その後転職という形でやってるんですけど、現状は、今も自己管理ではあるんですが、わりと自由というか、許可を得ればすぐに対応していただける。入退院も何回かしているんですけども、それも支援というか配慮をしていただいているっていうところなんで、気兼ねがないというとおかしいですけども、安心して手術、入院とかもできています。
本当は私の直属の上司は仕事に戻らない方がいいと思ってたみたいなんですね。主治医から病名を言われた時に最初に言われたのが、看護師は無理だって言われたんですね。もうデスクワークの仕事を探したほういいって言われたんですけども、でも私自身入院をしてみて、それまで自分が看護師として働いてたのが、全然患者さんの気持ち私わかっていなかったんだというのがすごく思って、それでこう私の強い希望で仕事に戻ったんですね、周りからは、だから反対されて戻ったような感じだったんですけども、でも職場はすごく理解していただいて、私は1名余分の人員で外来配置して頂いて、夜勤とかも免除して頂いて仕事はしていたんですけれど、それでも半年して再発をしました。
Q:その後お仕事は続けられたんですか。
大学病院にその時勤めていたんですけれども、結婚を機に退職したんですね。丁度その退職をするときに地元に結婚して戻ったんですけど、そのとき地元の個人病院の方から来てほしいっていうふうに言われたんで、そちらの方に就職したんです。でも最初からそこはもう、丁度当時は看護師が、今もなんですけど、看護師不足で、病気があるって話しても、それでもいいから来てほしいっていうことで、最初から病気のことを話せたので、無理がいかないようにっていうところでとても配慮していただけました。それでもう本当に慢性的だったんですね、症状が本当に慢性的で、調子が、寛解期が全然ないような感じで過ごしてたんで、途中から看護師の仕事が難しくなったんで、看護部長の部屋で事務仕事をしたりとかですね、そういうデスクワーク中心の仕事をかなり長い期間やってました。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
Q:例えばお友達との関係の中で、あなたが病気したことによって友達関係に何か変化とか出たりとかしましたか。
友達には、この病気のことは言わないようにしています。というのも、やはり20代で潰瘍性大腸炎っていう病名を友達に言うと、やっぱり向こうもすごくこう壁をつくっちゃうというか、悪気はないんだろうけども、多分何て言っていいか分からなかったりだとかしちゃうのかなっていう感じがするので、やっぱり気を使わせたくないというふうに思うので、友達には言わず、病気であっても普通の元気な自分もあるので、友達にはもう普通の元気な自分のところだけで付き合うようにして、病気の悩みだとかは同年代の友達には言わないようにしています。
Q:お友達にはやっぱりちょっと言いづらいというのは何か気持ちとしてはすごく個人的には分かるなって思う反面、こう何というんですかね、やっぱり何か話したくなる時みたいなのってありませんか。
もちろん1人で抱えているとすごく孤独になってくるので、話したくなるときというのは、患者会だとかで話すようにしています。
診断時23歳、インタビュー時30歳(2015年12月)関東地方在住
専門医にかかり標準的治療は殆ど行ったが寛解に至らず、主治医からは手術も勧められているが、自分で納得ができず手術はしていない。最近始めた臨床試験で青黛という漢方が効いているようで現在は寛解を維持している。家族は父、母、祖母。
この病気を持ちながらどう仕事をしていくかというのは、やはり大きな課題だと思うんですが、私の会社はすごく理解があります。発症してすぐに会社には申告したんですけども、その際から、上司は年々替わってはいるんですけども、常にすごく協力的でいてくれています。ただ、やはりこの病気はどうしても寛解期と活動期があるので、調子が悪くなってきたら、理想的には調子が悪くなってきたら会社と相談をしながら、うまくやっていけたらいいなというのは頭では分かっているんですけども、それがどうしても実際にはうまくできず、何度もちょっと無理をしてしまって、緊急入院みたいな形になってしまって休職せざるを得ないような状況に、今まで3回ですかね、3回ほどなってしまっています。
というのも、どうしても体の調子が悪くなってくると何かもう視野が狭くなってきてしまって、何とか今日一日乗り切るぞとか、今月いっぱい何とか乗り切るぞというふうな考え方になってしまいます。多分、自分で思うのは、やっぱりその裏には、病気で迷惑を掛けちゃいけないなというような気持ちがあってとか、あと病気で仕事で何かこう駄目なやつだと思われたくないみたいな気持ちが、どうしてもあるんだと思います。会社は協力的でいてくれているので、会社は自分が無理をすることを期待しているのかって落ち着いて考えたらしていないですし、もっとうまく相談をしていけるようにできたらいいなというふうに頭では分かっているので、それがうまくできるようになったらいいなというふうに思います。やっぱり迷惑を掛けているとかという考えではなくて、病気だから分かることというのもあるので、それを仕事で生かしていくとか、もっとプラスの考えに変えていきたいなというふうに思っています。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:ご家族だけじゃなくてお友達とか何か周りの人も、今出てきた職場の状況とご家族だけだったんですか?ご友人との関係とかっていうのは。
友人は全部私の病気のことをみんな知っていたので、すごく闘病中も、まあ本当にこれはありがたいなと思ったのが、今はメールとかがありますよね、だから昔と違ってやり取りがダイレクトにすぐツーカーでできるので、闘病中も頻繁に友達からはメールとかも来て励ましてもらったりはしていましたね。だから逆に寂しいとかそういうことはなくいられたなというのはありました。
Q:お友達とか周りの方から言われてすごく励みになったり、うれしかったり、支えになったりしたことはどんなことがありますか。
やっぱり友達が元気になることを信じていつも待っていてくれてたっていうのとか、あと私はちょっと長かったので、毎年毎年お正月がきて何か皆さん祈願に行かれたりしますよね。その時に必ず友達は私のことを祈願してくれてお守りを送ってきてくれたりとか、「自分のために頑張れないんだったら私たちのために頑張ってよ」じゃないけど、そういうメッセージをくれたりとか、本当に恵まれていたなと思います。なのに私は、つらすぎて死にたかったり、頑張ろうという気がなかった人間だったので、すごい恥ずかしいというか、だから今生かされたのは,懺悔のために生かされたんじゃないかって思っているというか、残りの人生はやっぱりそういう人たちのためにも心して生きなきゃいけないなとは思っています。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:勤める時にはご自分の病気のことはお話しされましたか。
していないですね。その時の年齢が私は39だったので、39で社会復帰するというのも、やっぱり30代が全部入退院・手術の繰り返しで社会生活が送れていなかったので、結構履歴書に書く時にブランクがあるので(笑)突っ込まれるかなとは思ったんですけど、幸か不幸か突っ込まれなかったので、あえて自分から言うこともないかなと思って入る時は言わなかったです。
Q:今もお話しされていないのですか。
話をせざるを得なくなったきっかけというのが、私がこの病気を体験したことを通して絵本を書いたんですよね。その絵本が出たことによって会社にはバレるというか、話さざるを得ない状況になったんですけど、まあ環境が薬局なので、やっぱり医療従事者さんなので皆さんすごく理解をしてくださって、むしろ働きやすくなりました。
Q:最初の就職の時に病気のことを話すと就職しづらいかなというのは、やっぱりありましたか。
ありましたね。年齢も年齢だったんですよね。39だったというのもあるんですけど、やっぱり仕事を辞めてからそこまでの年数が長いので、「じゃあこのブランクは?」っていうところもあったので、あまりこういう手術をいっぱいしてきたとか言うと、やはり「また何かあったら」と先方に思われてもマズイなとも思ったし。主治医の先生は「言っておいたほうがいいんじゃない?」とは仰っていましたけれど、でもまあ普通に食事もとれるようになっていたのであえて、まあ聞かれれば、そのブランクのことを聞かれてしまえば正直に話すつもりはあったんですけど、聞かれなかったので話さないで終わってしまった。
診断時27歳、インタビュー時62歳(2012年9月23日)関東地方在住。
15年間の内科治療の後、全摘手術をしたが、その後何度も腸閉そくを起こし、最後は繋ぎ目のところが壊死をしてしまい、緊急手術もした。それでも大腸全摘手術をしたおかげで、公務員としての仕事を定年までまっとうすることができた。現在夫と子供二人の4人暮らし。
実を言いますと体育の教師なんです。体育の教師でして、勿論体力的なものもあります。ですからあまり迷惑をかけたくないってことで、もう具合が悪くなった時点で、もうできるだけ早く療休を取るという、そういう感じで届け出をすぐ出していました。早めに出して、ちょっと長期的に療休を取る。取れば必ず代わりが来るんです。代わりの先生が。長期的な療休を、この病気は短期間で治らないことが分かってたんで、例えば半年とか、長期的にばっと取っちゃって、それで休むという、自分でそうしてましたので、そうしたら代わりの先生が、2-3週間後に来るっていう形でしたので、まあそれほど・・まあ、勿論迷惑はかけてました、職場の皆さんには。色んな、教えること以外に色んな仕事がありますので、雑務もありますから、そういうのを引き受けてもらったりとかしたんですけど、まあそいう状況ですので、まあそれほどどうしようもなく他の人に迷惑かかるという、そういうことはないようにして心掛けてきました。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
もう潰瘍性大腸炎になってから、最初は隣に居る病気君だと思ってたんですね。で、手術をしてからは、もうこの子とはひどくはなんないけどある程度、完治とは言ってもらえないけど、大丈夫になったから、もう自分の中の一部になってるんですね、病気君が。受験をするのにも、生活するのにも、何をするのにも、一応は私は一応病気をもっているんだということを頭に入れながら高校を選ぶのも、私、こうこうこういう病気を持ってるんですけど大丈夫ですか、受け入れてくれますか。どういう対応をして下さるんですか。相手の学校に、ずーと、私潰瘍性大腸炎なんですけど本当に大丈夫ですか、どういう対応をして下さるんですかっていうのをずーと質問してます、毎回。
Q:学校側はそれに対してどういう反応をしましたか。
公立では、「あ、そうなんですか」受け流したわけではないと思うんですけど、あちょっと反応が軽いんじゃないかな。もう少しだけ真剣に、ちょっとだけでも考えてほしかったな。でもある程度の対応は、できるだけの対応はしますよと言ってくれてるんですけど、やっぱり私立とかと比べちゃうと、私立の場合もともと色々な設備を備えているから、ストマトイレがありますよって言われたり、「病気持ってるんですけどどうしたらいいですか」って言ったら、「単位だったらちょっと日付を変えたり、夏休みの時に来てもらって勉強したりすればいいだけですから、別にこちらとしてはそんなに深刻な問題とは考えなくて大丈夫ですよ」
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
一人の女の子から他の男子に「この子はこういう病気なんだって」って伝わっちゃって、その後帰りにいつも挨拶されないのに「元気でね」って言われたり、ひどかったのは、たまたまちょっと体調が悪かったのかわかんないんですが、ちょっと元気がなかった時に、多分その彼的にはそんなに悪い心で言ったわけではないんだけど、「もうすぐ亡くなられるんですか」って言って「もう余命宣告されているんですか」って言われた時には、ああ変に伝わっちゃたんだと思って、そこはもう少し私が掘り下げて話した方がよかったのかなとか、ああ伝えなかった方がよかったのかな、っていってちょっと傷つきましたね。
でも彼には、大丈夫だよ、余命宣告されてないからって言って笑顔でかわしたんですけど、んーんその知ってる子に言った時には「大丈夫なの?」って言われて、彼女は本心気付いたんだなと思いながら、ちゃんと伝える時は全員に伝えた方がいいのかなっていうのも思いました。掘り下げて話さないと余命宣告されるような、される人もいるかもしれないけれど、されるような病気では主にないのに、余命宣告、お医者さんにもされてないのにまさかクラスメイトから言われるとは思いませんでした。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
今は普通の学校に行っていますが、それまでの間は院内学級系列の学校に行っていたので、みんなやはり心の病気だとか、体の病気だとかっていうのがあったので、できるだけ病名はみんなそろって聞きあいっこはせず、ああ大変だね、っていう感じでしたが、ストマの時だけはちょくちょく捨てに行かなきゃいけないので、行っていると、小中一貫だったので、小学生の子からは、何であの人は何回もおトイレに行くの、あなたは何でこんなにいっぱい行くのって聞かれた時は、ついつい何て言えばいいんだろうと思って戸惑いはありましたね。
やはり先生に承諾を得てからお手洗いに行くっていう形じゃないとやはりだめなので、その時に、わあ言いたくない、言いたくないけど言わなきゃいけない、言わないと溜まってもれちゃうよ、っていうのがあって、そのことを保健の先生に相談したら、カードを作ってくれて、このカードを見せた時は、私はトイレに行ってくるから授業を進めといていいですよっていう合図にしようって言って提案してくれたのはとても助かりましたし、まあ院内学級系列っていうのもあって、ストマトイレが学校にあったというのがとても私としては助かったなというのがあります。
診断時:10歳 インタビュー時:14歳 中学3年生(2012年4月)関東地方在住。内科治療を色々試したが、どれも効果がなく中学1年の時に大腸全摘の手術を行った。手術をして良かったと思っている。また、自分の体験を多くの同じ病気の人に知ってもらいたいとも思っている。今は、母と犬2匹と暮らしている。
Q:お友達に自分の病気のことを話すっていうのはなかなか難しいと思うのですが、相手によって理解してくれる場合もあるし、今おっしゃったように腫れ物に触るような形になることもあると思うんですけれど、今までそういうお話をして、聞いてもらって良かったなっていうことはありますか。
聞いてもらって良かったなっていうのは、腫れ物扱いされるかもしれないし、納得してくれる子もいますが、一人に伝えたということでそこから広がってくれればなって、無理な話、想像だけど、そう思うと言ってよかったのかなって、必ず思いますね。今もう普通の学校に戻りましたし、まだ転校の理由だとかそういうのは言っていないのですが、いずれみなさんに言う機会があればクラスの方には伝えようかな、言おうかな、っていうのは思っています。
Q:なかなか難しいですよね、言うタイミングっていうのも。でもこういうインタビューも受けていただいたんですが、ご自分がこういう病気だったんだよ、手術をしたんだよということを公表することに不安というか、やだな、はずかしいとかそういう気持ちはあまりないですか。
いえ、はっきり言ってありました。(病気に)なって(病名を)聞いてからは、小学校4,5,6年生、(中学)1年生も入ってたかな、絶対にこの病気の名前は言わないし、どういう症状でどんなことがあったかも絶対に言わないっていうのを決めていたし、やはりあのおばあちゃんとかおじいちゃんとか、そういう方も、心配して電話をかけてきて、それを母親や父親が説明しているのを聞くと、本当にいらっとしたし、私はそんなひどい病気じゃないって言って必ず否定をしていましたし。なので、昔の自分からすると、今こうやってインタビューに答えてたりだとか、友達に言おうと、伝えようとするとか、そういうのを昔の自分からすればすごいことだなって思えるのかなっていうぐらい、はい。私は潰瘍性大腸炎です。だから?みたいな、本当にそんな気分で、できるだけ多くの人に今は頑張って伝えなきゃなと思っています。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
入社試験はありませんが司法試験というのがありましてね、弁護士なので、あれはこの病気には非常によくないと思いましたね。やっぱり、確かにそんなに頭がいいわけでもありませんのでなかなか試験が難しくて、プレッシャーもひどいもんでして、試験の時のプレッシャーはひどいもんでして、最後に受かった年の司法試験もトイレに駆け込みながらいってる形だったので本当に苦労はしましたね、
試験においても。やっぱりストレスが一番よくないということなので、と言われましてもストレスを感じるなというほうが無理な試験でして、しょうがない、そこはもう仕方がないと、だからといってこの試験あきらめて、他の仕事に就くのは自分としてはいやでしたので、もうどうなってもいいやと、半分諦めながらもがむしゃらにやってたことはありあます。
診断時19歳、インタビュー時35歳(2012年3月) 関東地方在住。大学に入学した頃発病して内科治療を続けながら司法試験に挑戦し、苦労しながらも弁護士になった。その後も再燃、寛解を繰り返し、薬もだんだん効かなくなってきた時手術も検討したが、最近はなんとか寛解状態が続いている。独身の一人暮らし。
やっぱり調子が悪くなるとトイレも多いですし、私仕事柄弁護士をやっていますと、法廷中にトイレが、ちょっとすいませんと法廷を中断してもらってトイレに行った覚えもあったこともあるので、支障がないと言えば、無いことはないので大変ではありますけど、まあ、でもそうですね職場でも割とこの仕事は何て言うのかな、勤務時間が何時から何時までというわけではないので、自分の裁量である程度やっていけるので、まあ、法廷の時以外はそんなにきちっと決められているわけではないので、トイレは何回も行きながら、自分の裁量で時間を、自分のペースでやっていましたので、何とか。職場にも言ってはいますので、その話を、ですからまあ、理解してもらっているところもありますので、何とかやっております。
診断時31歳、インタビュー時50歳(2012年3月)関東地方在住。長年にわたる内科治療と数回の入院のあと手術をし、現在は元気に小学校の教員をしている。家族構成は夫と娘、息子、夫の両親の6人家族
臨時適用職員として職場に戻って4年目に本採用の試験を一応受けて、たまたま通ったんですけれど、その時も、今度はもうちょっと健康診断はかなり重要なもので、神奈川県では月に1回、県の審査っていうのがあってそれに通らないと採用には多分ならなかったと思うんですが、それもまあ、嘘を書くわけにはいかないので、病名を書いて、やはり医師のコメントを書くようなところがあったと思うんですけれども、そこに仕事をするにあたっては差し障りがないというみたいなことを書いていただけたんで問題なく通りました。
仕事を始めて困ることっていうのはあまりないんですが、一番最初に遠足の引率というのがあって、ちょっと心配だったんですね。なかなかトイレに行くっていっても、トイレがないわけじゃないんですが、トイレに行くって言っても自由に行けるわけじゃないんで、どうかなって、途中でトイレに行きたくなったら困るなって思ったんですけれど、緊張してたせいか、戻ってくるまで一度もトイレに行かずに何とかクリアーすることができて、ああ意外に大丈夫かななんていうふうに思ってたんですね。その後も遠足だったり修学旅行だったりいろいろあるんですけど、まあ何かかんか、トイレが一番心配なんですね、それ以外のことは全然今心配することは全くないです。
診断時56歳、インタビュー時61歳(2012年2月)関東地方在住。2007年に潰瘍性大腸炎と診断され、内科治療のあと手術。術後しばらくは大変だったが、現在は大変元気で障害者の働く、ふれあい喫茶で店長をしている。息子と夫婦と3人暮らし。
Q:今は仕事をまたされているとのことですが、その仕事に何か影響があるとか差し障りがあるということはもうないんですか。
今の仕事は3年前からしていますが、その前の仕事は完全にもう諦めまして、辞めようという感じで諦めたところにたまたま今の仕事の募集を知りまして、受けました。その時は病気のことはあえて、隠すつもりはなかったんですが、必要ないと思いまして、言わないで入社しました、
今の仕事ですね。でもそのうちに、今はもう話しました。というのは全然支障がないからです。今の仕事をしていて他の人よりも誰よりも多分一番元気だと思うんです、自分で。みんなからも一番元気って言われてますので、今の仕事はまったく差し障りがありません。ただ、トイレの回数は1日今は下痢が10回前後はあるんですが、そこは自由にトイレに行ける状況なので、それは心配ないです。あと、お店がすごく忙しいときは全然トイレに4時間も5時間もいかなくてもすむんですね。ですから全然大丈夫です。
Q:そうすると最初は病気のことはおっしゃらずに採用されて仕事を始めたんだけれど、今は公表されているということなんですけれど、最初の段階で特にトイレの回数が多いとかいうことで困ったりということはありませんでしたか。
最初からそれは全然ありませんでした。トイレも自由にすぐ行ける状況のところですので仕事場が、それは大丈夫です。
診断時56歳、インタビュー時61歳(2012年2月)関東地方在住。2007年に潰瘍性大腸炎と診断され、内科治療のあと手術。術後しばらくは大変だったが、現在は大変元気で障害者の働く、ふれあい喫茶で店長をしている。息子と夫婦と3人暮らし。
発病したのが4年前の2月で、その時に4月から介護の、私が以前からとってもやりたかった仕事で、正社員としてかなりやりがいもある仕事を4月から任せられる予定だったんですが、3月に入院してしまいまして、それでもそこで少し待ってあげようって言ってくださって、病院に入院しててもすごくやきもき、気が気じゃなかったです。もういつ治るんだろうとか、先が見えない状態で、その時の主治医の先生に何度か詰め寄って、何月に退院できますかって聞いたんですが、全然わからない状態で、全然回復の見込みがない状態だったんです最初。
それでも職場の方で待っていただいて、じゃあ10月から正式にという形で待っていただいたんですが、やっと10月1日から入りまして、結局10日しかもたなくて、また10日に入院するはめになってしまいました。その時はかなり落ち込んで、この先どうなっちゃうんだろうと本当に不安でしたね。
診断時49歳、インタビュー時59歳。関東地方在住。
劇症型だったため発病から1年後に全摘手術。術後1年は大変だったがその後は順調。仕事は事務職のサラリーマン。女房と子供が二人。
Q:それは、その復帰しようと思えたのは、回数が減ってきてそろそろ大丈夫かなっていう判断ですか?それとも、例えばお医者さんと相談されてっていうようなことだったんでしょうか。
いや、もうお医者さんは、仕事して良いとか悪いとかっていう状況ではなかったので、お医者さんからは特に何も言われませんでした。要は、最初1ヶ月ぐらいでちょっと会社行ったんですね。で、行ったんですけれども、仕事にならないんですね。もう1時間おきぐらいにトイレ行かなきゃいけないし。それから、普段の時も、もうやはりトイレのことが気になっちゃって仕事に集中できない状況なんですね。それと、やはり動き回るのが駄目なんですね。動き回るとどうしても便意が出て来てしまうので。じっと座ってる分には割といいんですけどね。でも、いくら事務職とはいっても、やはり、会社の中であっち動いたりこっち動いたりしますよね。ちょっと書類を取りに2~3歩動くという。そういうのも辛いんですね。なので、ああ、これはちょっと仕事にならないなと思って、もう一度休ませてくださいっていうことで、そのあとまた2ヶ月ぐらい。
(その後)何とかなるかなっていう時に、最初はだから半日勤務でスタートしたんですけども。私の場合は、午前中が割と調子良いんですね。朝トイレ行って、そのあと、お昼を食べるぐらいまでが割と安定してたものですから、最初の頃は、その午前中だけ行って午後帰ってくるというようなところからスタートして。それで、最終的にフルタイムで戻れたのが3ヶ月ぐらい経ってからというような状況でしたね。
Q:ということは、その半日っていうのがどのぐらいの期間ですか。
半日っていうのは、そうですね。2週間かそこらでしたかね。
診断時:21歳 インタビュー時:31歳(2012年4月)関西地方在住。現在、常勤の高校教師。大腸の全摘手術経験者。下痢が半年間続いたため、病院受診、検査ですぐに潰瘍性大腸炎と診断される。ステロイドで回復するも、止めると再発し、これを繰り返す。将来も考えて、手術を決断。術後の経過は、他の手術経験者と比較してもかなり順調な経過をたどり、その後、希望であった教師の職に就く。
面接の時など、(病気のことは)私は一切言いませんでした。正しいやり方かどうかはわかりませんが、就職が決まってから、実はこのような病気であるということを言うようにしていました。私の職業はちょっと特別で、教師ですので、生徒の中にも同じような病気をもっている子がいたりして、そういった意味で、そのような子たちのサポートにもなると思いましたので、就職が決まってからは生徒にも職場の仲間にもオープンにしています。やはり病気を出してしまいますと採用に支障があるかなと思いましたので、病気のことは伏せて、就職の面接には臨んでいたと思います。
Q:職場で病気のことをオープンにされて、プラスマイナスを含めて何かありましたか。
まず生徒の中に同じ病気の人がいたので、その子のことでよく相談を受けたりとか、病気をもっている子は潰瘍性大腸炎にかかわらず他にたくさんいますので、そういった子たちの気持ちがすごくよくわかるということがありましたので、何か病気のことで困った時は自分も交えていろんな会議があったりとかするようになりましたので、私の職業にとっては、そんなにマイナスにはなっていないと思います。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
私の場合は、一人で自営業だから、他に代わる者がいないので、その間休業ということになってしまう。2ヶ月経って退院して仕事を始めたんだけども、以前のような仕事は入ってこないんですよね。すべてお客さんが逃げてしまっているんです。そこからまた色々連絡してやり直すまで、1年経ってやっと半分ぐらいの収入になって、そこからやっと3年経って以前と同じ様な仕事量に今、戻っているわけなんですけども。だから病気になって入院することができないなと。入院したら今度は家族全員が路頭に迷うんじゃないかと。そういうことで、病院の通院は必ずしますけども、入院だけはずっと拒否しながら、すごく悪くなった時期が何回かあります。
最初入院したときと同じ様な時が私の場合はね、普通で下痢が20回ぐらいが当たり前になってきて、小さい時から下痢が多かったので、1日10回以上が当たり前で、20回とか、行くときは50回ぐらいとか、1日の2/3はトイレの中にいて、夜も寝れない状態で下痢・下血のときも入院を拒否して、毎日というか2日か3日に1回点滴だけ、栄養を入れないとダメなんで点滴だけしに行っていました。入院すると、仕事休んだら取り戻すことができないという関係でそういったことになっているんですけども、なかなか患者として自由に入院もできない。ただ通院だけは夜にやっていただけるので、特に近くの町医者で点滴というのは割と自由がきいて、たいがい7時までなんで、点滴1時間かかるので、5時半か6時に行ったら1時間かけて点滴して帰ったら、それからまた仕事をする、そういった状態を続けています。
診断時:43歳 インタビュー時:51歳(2012年3月)関西地方在住。鉄鋼関係の溶接業を父から受け継ぎ、大企業も相手に職人技の溶接を一人で行い、家族6人を養っている。少年期より下痢など腸の調子が悪く、2004年に重症化、大学病院でようやく潰瘍性大腸炎の診断を受ける。主としてステロイドで治療を行い、昨年よりレミケードを使用、レミケードの効能も現在、減弱傾向にある。医師から手術や入院を勧められるが、仕事の関係から拒否している
治らない病気になってしまったんだと、それならこれから生活はどうなっていくのか、家族はどうなっていくのか、もうすぐ死ぬんじゃないかと。そういったことが家族の頭によぎって、子供らでも、その時、発病した時は小さかったんですけども、「学校に行きたくない」とか、そのようなことがありました。お父さんはすごい重い病気になってしまった、で、治らない病気だと。内容がわからないんですよね。医者から言われたことを僕は家族に話したわけですけども、治らない病気になってしまったということを言うことによって、これから先どうなっていくんだという落胆的な家族の思い、知識がないからそうなるんですけども。そうなって食事とかがダメだと、あまりにも下痢がひどいから外に出られないと。そういうことで家族は、僕自身もそうですけど、すごく落胆、失望的な、将来に対して失望的な負の思考しか生まれてこないですね。何もかも悪くなっていくような気持ちがあったんですけども。
そういった時も家族が支えて、なるようにしかならないからということで過ごしてきたわけですけども。だんだん内容的なことというか、知識というか、これはすぐに死ぬ病気じゃないんだと、死とかそういうことは関係ないんだからと、ただの身体の症状として付き合っていけるものなんだというふうにだんだんと変えるようになってから、家族もみんな普通の風邪的な、まあ風邪じゃないんだけども普通の病気と、長い病気だと思って付き合うようになって。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
その時はトイレのことがすごく頭の中にあって、下痢、トイレどうしようとか思った時点でお腹も痛くなったりトイレに走らないといけない状態になってしまってたので、一時は心療内科で過敏性腸症候群っていうんですか、そういうのもあるかもしれないということで、心理療法というのも受けたこともあるんですけども、あまり変わらなくて、やはり仕事を辞めて1年半くらいは、近くのスーパーにも買い物にも行けないくらいの、心理的にもちょっと病んでいた。
そういう状態が一時あったので仕事はもう続けられなかったので、やはり迷惑をかけることになるので、いくら周りが理解があると言っても、それで仕事は続けられなくて、まあ専業主婦でいられる立場というか、そういう環境にありますので、それに甘んじてというか、仕事は今はもうする気はないんですが、今だったら本当に紙おむつはいてでも好きな仕事があればできるくらい、だんだん病気ともうまく付き合っていけるというか、下痢ともうまく付き合っていけるようになったんですけれど、その当時は仕事に関して柔軟な態度がとれなかったというか少し反省するところではあります。
診断時29歳、インタビュー時47歳(2012年3月)関西地方在住。長年にわたる内科治療のあと去年の年末初めて入院した。今は緩解状態だが、最悪の場合手術も視野に入れている。現在は専業主婦で、家族構成は夫と娘が一人
もう簡単な事務だったので、どちらかというと電話番程度に居ればいいけどもそのかわり休まれたらちょっと困るよというような職場だったので、少々熱がでたりとかそういう時でもとにかく仕事というか会社に出て座っていればいいよという感じで行けたのがラッキーというかよかったんですけれど、事務所の中もみなさん外で、お昼間というか普段は出ているので、私がほとんど一人事務所に居るという状態だったので、トイレに何回行こうが下痢をしていようが、しんどい顔をしていようが大丈夫という、すごく恵まれた職場だったので、すごく長く続けられたんですけれども、やはりだんだん症状がひどくなってきて、下痢が頻繁におこって、洩らすっていうんですかね、すぐそこのトイレも間に合わないという感じがあったりだとか、ちょっと外に出かけたりとかする用事の時でもそれができなくなったりするぐらいひどくなってきたので、さすがにこれではちょっといけないということで、今だったらもう少し病気に対して視野も広く考え方も歳とともに広くなっているので、今だったら多分紙おむつはいてでも仕事を続けられたと思うんですけど、その時はまだ30代で、若かったので、やはり出先とかで便が漏れてしまうということがすごくショックで、それが頭の中一杯になってしまうというか、もう駄目だという感じでどうしても仕事は続けられないということで仕事を辞めてしまいました。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
一日目、職場に行ったところ、まだ4月だったんで、まだ寒いんですね、工場みたいなところだったんで。体がやっぱり思うように動かなくて、お腹も痛くなるし、で、これはもうみんなに迷惑が掛かると思って、職場の人にちょっとすいませんと、用事が急に入ったので、今日はこれで早引けしてもいいですかと。で、たぶんかなり悲愴な顔をしてたんだろうなと思うんですけども、その職場の人は、ああ、じゃ、大変そうだからいいよと言ってくれまして、そのまま家に帰って、布団の中に入って体を休めながら、なぜか知らないけども、涙がポロポロ、ポロポロと。せっかく決まったいいチャンスなのに体が付いていかないと。
で、気持ちとは裏腹にそういう体の不都合があって、どうしてこんなことになったんだろうと、一時間ぐらいですかね、泣きっぱなしで。で、夕方になって妻は帰ってきて、ただごとじゃないと、で、どうしたんだって言われて、また泣きながら、いや、実はこうこうこうで、たぶん無理だと、どうしようと相談したところ、あの、あなたの思うとおりにしてくださいと、体が大事ですからと言われて、結局次の日に、あの、社長さんのところに行って、申し訳ないと、体、やっぱり体が付いていきませんと、まあ、当然怒られました。大丈夫だって言ったじゃないかと言われたんで、もうその時も泣きながら、申し訳なかった、もうほんとにそれしか言えませんでした。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
で、まあ、その今働いてるところも、何回も短い入院を繰り返してきたんで、そのたんびに上司に言うんです。「あまり僕はあてにならないので、この入院を機に、首にしてください」と、はっきり言うんですけども、「いや、君は良くやってくれているので、ゆっくり体を治してきてからまた職場復帰してください」と。ま、僕にとっては、すごいありがたくて理解のある職場で、で、それも何て言うんですか、仏の顔も三度まで、も、三度以上なんですけども。で、今回はちょっと長くなりそうだと、でもほんとにあてにならないので、あの、切っちゃってくださいと、解雇してくださいと言ったんですけども、いや、しっかり治療して、また戻ってきてくださいと言われまして。ま、その時また泣きましたね、ありがたくて。で、じゃ、あの、すいませんが、しばらく離れますと言って入院しました。
診断時:27歳 インタビュー時:44歳(2012年11月)北陸地方在住。発病後8年間の内科治療の後2003年に大腸全摘手術を受けた。その2回目の手術の後腹膜炎を起こし緊急手術となり、同時に人工肛門を閉鎖した。しかしその後も体調不良が続き最終的に恒久的な人工肛門にした。さらに2011年1月には肛門に膿がたまり肛門摘出の手術も行った。今は落ち着いている。妻と二人暮らし。
先生にも相談したところ、君はまだ仕事は無理だと言われたんですけども、やはり何か収入を得ないと生活が成り立たない。で、正社員にこだわってたんです。正社員の方が安定しているし、給料も高いし、でも体がっていうそのジレンマですね。そして何て言うんですかね、しばらくは職安に行く振りをして、妻には内緒で、で、ボーっと海を見にいったりとか、で、家に帰って、妻が帰ってきて、今日どうだったと、いや、なかなかいいところがなくてねっていううそを結構ついてましたね。
ま、ほんとに行って探してもみたんですけども、やはりこういう体なので、なかなか条件に合った、自分の条件に合った職場がないと。で、でも妻には心配掛けさせたくないっていう、変なプライドもあったんで、ま、うそをつくしかないのかなという感じで、しばらく続いたんですけども、ある時に文房具屋さんに買い物に行ったんです。で、そこで中学の時の同級生に出会いまして。「今どうしてんの?」、「いや、実はこういう病気で仕事ないんだ」って言ったら、「ちょうど今、空きがあるから来てみないか」と言われまして、面接を受けたところ、じゃ、リハビリのつもりで、しばらく来てみませんかということになって、行き始めたのが今の職場です。
診断時:29歳 インタビュー時:53歳(2012年11月)北海道地方在住。トイレが頻回になって出血もあり、痔かと思って病院に行ったら即入院となり、潰瘍性大腸炎(UC)と診断された。以来さまざまな内科治療を経験し、入院も通算7回を数えている。手術も考えたことがあるが、まだしていない。家族は妻と成人した子供が二人。
うんと、自分が、まあ、遊んでて病気になったというよりも、職場の中では、ま、課題を持って、あ、異動してくれと。で、単身赴任、ま、当時はしかも新婚ホヤホヤというときでしたけども、そういう中で行かせた人間が、ま、病気になったっていうのを、職場の方、特に上司のところで、ま、あの、仕事上の発病とは言わないけども、そういう気持ちで受け止めてくれていたのは、プラスの材料でした。
で、単身赴任から戻ってきたときにも、やはり、新規の事業に対する職場だったんですけれども、ま、ちょうどそれが、軌道に乗って、一年ほどたった後の入院ということで、ま、切りも付いたということだったんですけれども、そこで職場の配置替えがありました。で、外勤がメーンの仕事だったのを、経理という自分にとってみれば、まったく未知の分野に、え、肩書きだけは、その、当時課長でしたけども、そういう肩書きを背負っていくということで、この時は、配慮もうれしかったけれども、何も知らないのに短期間で、仕事を集中し、吸収しなければいけないということで、つらい部分とうれしかった部分とありました。で、経理に異動した後に、ま、座り机でしたから、えー、そこで、あの、エレンタールを日中飲みながら、仕事をするということでいくと、飲んでないと周りの女性が、あの、どうして今日飲まないんだという、チェック係りもしてくれたりして、あの、みんなの中では、あの、非常に助けられたなというふうにも思います。ただその経理の職場にいるときにも、2~3回悪化して、入院ということもしてしまったので、ま、そういう病気なのかなっていう、病気に対して、自分が受け止めなきゃいけない部分と、職場との関係では、あの、首にならないくらい、あの、ある程度専門性、なくてはならない人間という役割を果たすのと、入院してもなるべく早期に戻る、少なくとも、え、決算期を迎える前には、彼はいなきゃいけないということだけは、心掛けていたと思います。
診察時26歳、インタビュー時44歳(2013年1月)女性 中国地方在住。長年にわたり一通りの内科治療をしたが改善しなかったので2002年に手術をして大腸全摘した。直後は腹膜炎を起こして大変だったが、現在は元気に暮らしている。家族構成は夫と二人暮らし。
仕事を辞めて、まぁ、たまにアルバイトをしながらとかだったんですが、うちの母が、割ともうあっけらかんとしたタイプの人だったので、それに引きずられる感じで。で、まぁ、それでもやっぱり、仕事はやっぱりしたいっていう気持ちがあったのでバイトとかをしてたんですけれども、そのたびにやっぱり悪くなって入院したりすることがあったので、もう周りからも、もうとにかく何もしないで、お食事もきちんと当時の低残渣食、食べて、家でじっとしてればいいんじゃないかと言われ、1年ぐらいそうしてみたんですが、
やっぱりそれでも再燃してしまったので、それなら楽しく好きなことをやって過ごして、悪くなるならまだしも、何もせずにこんなに良い子にしてるのに悪くなるのだったら、それは人生楽しくないなということに思いまして。もうそれからは特に気にすることもなく、好きな時に好きなことをしようと、割と吹っ切れて過ごしていました。なので、特にそんな悲観してっていうこともなく、あの、思い悩んでっていうこともなく過ごせていたのは、(笑)まぁ、自分では、まぁ、良かったのかなっていう風に思っています。
中国地方在住。長年にわたり内科治療を受けながら会社の仕事も続けている。ステロイドの副作用もでているが、まだ手術までには至っていない。患者会の仕事も精力的に行っている。家族構成は妻と二人暮らし。
この病気になった以降というのは、やはり、あの、職場の理解というのがやはり必要なんですね。あの、ある日、突然いなくなるというパターン、入院するというパターンが結構あるんでですね。あのー、当然、それなりの責任を持って仕事をしているんですけど、とはいえ、サポート体制というのも取っていただいております。といって、職場に、どう言うんですかね。余剰人員がいるとか、そんなことは今の時代ですからあり得ない話なんですけど。あの、迷惑をかけているという事実は、否定できないと思っております。私が今、自身、今時点で思ってる、ずっと、心がけていることは、やはり、私は、あの、健康で…健康でというのは、あの、入院しない状態でずっと仕事を続けていくことが職場に対する恩返しなんだという風なことをやはり心がけております。
ですから、あの、まぁ、今の上司に対しても、あの、当然、体調というのは逐次報告して。あの、逐次って、まぁ、悪くなった時ぐらいしか言わないんですけど、報告しながら、それで、当然勤務の配慮というのもしていただいたりとか。あと、通院の配慮、一応、うちの会社のほうでしていただいておりまして。あの、3、4週間に1回は、まぁ、病院、通院して1、2時間、2時間ぐらいですかね。ちょっと、あの、職場空けるんですけど、その分も勤務時間中に行かしていただいてる。