このサイトは潰瘍性大腸炎とクローン病の患者会の全国組織である、NPO法人IBDネットワークがNPO法人健康と病いの語りディペックスジャパンの許可を得て作成したものです
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:ご家族だけじゃなくてお友達とか何か周りの人も、今出てきた職場の状況とご家族だけだったんですか?ご友人との関係とかっていうのは。
友人は全部私の病気のことをみんな知っていたので、すごく闘病中も、まあ本当にこれはありがたいなと思ったのが、今はメールとかがありますよね、だから昔と違ってやり取りがダイレクトにすぐツーカーでできるので、闘病中も頻繁に友達からはメールとかも来て励ましてもらったりはしていましたね。だから逆に寂しいとかそういうことはなくいられたなというのはありました。
Q:お友達とか周りの方から言われてすごく励みになったり、うれしかったり、支えになったりしたことはどんなことがありますか。
やっぱり友達が元気になることを信じていつも待っていてくれてたっていうのとか、あと私はちょっと長かったので、毎年毎年お正月がきて何か皆さん祈願に行かれたりしますよね。その時に必ず友達は私のことを祈願してくれてお守りを送ってきてくれたりとか、「自分のために頑張れないんだったら私たちのために頑張ってよ」じゃないけど、そういうメッセージをくれたりとか、本当に恵まれていたなと思います。なのに私は、つらすぎて死にたかったり、頑張ろうという気がなかった人間だったので、すごい恥ずかしいというか、だから今生かされたのは,懺悔のために生かされたんじゃないかって思っているというか、残りの人生はやっぱりそういう人たちのためにも心して生きなきゃいけないなとは思っています。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:勤める時にはご自分の病気のことはお話しされましたか。
していないですね。その時の年齢が私は39だったので、39で社会復帰するというのも、やっぱり30代が全部入退院・手術の繰り返しで社会生活が送れていなかったので、結構履歴書に書く時にブランクがあるので(笑)突っ込まれるかなとは思ったんですけど、幸か不幸か突っ込まれなかったので、あえて自分から言うこともないかなと思って入る時は言わなかったです。
Q:今もお話しされていないのですか。
話をせざるを得なくなったきっかけというのが、私がこの病気を体験したことを通して絵本を書いたんですよね。その絵本が出たことによって会社にはバレるというか、話さざるを得ない状況になったんですけど、まあ環境が薬局なので、やっぱり医療従事者さんなので皆さんすごく理解をしてくださって、むしろ働きやすくなりました。
Q:最初の就職の時に病気のことを話すと就職しづらいかなというのは、やっぱりありましたか。
ありましたね。年齢も年齢だったんですよね。39だったというのもあるんですけど、やっぱり仕事を辞めてからそこまでの年数が長いので、「じゃあこのブランクは?」っていうところもあったので、あまりこういう手術をいっぱいしてきたとか言うと、やはり「また何かあったら」と先方に思われてもマズイなとも思ったし。主治医の先生は「言っておいたほうがいいんじゃない?」とは仰っていましたけれど、でもまあ普通に食事もとれるようになっていたのであえて、まあ聞かれれば、そのブランクのことを聞かれてしまえば正直に話すつもりはあったんですけど、聞かれなかったので話さないで終わってしまった。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
私は母と2人で暮らしていたので、正直私が最初に潰瘍性大腸炎だよって言われた時に私本人はそんなに打撃がなかったんですけど、母はかなり衝撃的で、泣かれたことは覚えていますね。でもその後、私が救われたのは、母がもともととても明るい性格の人なので、どんな時でも「絶対治る」がモットーの人だったので、私は正直本当に恥ずかしいんですけど何かもう死にたかったし、元気にしてくださいと思ったことがなかったというか、もうこんなにつらくって、こんなに大変で、正直人工肛門も自費なので結構な金額がかかっていたんです。そういういろいろ、諸々考えると、こんなお荷物がずっと生きていたらみんなの迷惑になるっていうのもあったので、本当に死ねるものなら死にたいなっていうふうに思っていたんですよね、親不孝なんですけど。でも母は全然そういうのも気に止めずいつも明るく接してくれていたので、母のおかげで生かされたのかなっていうところが正直ありますね。一緒に母も落ち込んでしまうような人だったら、こういう結果にはならなかったかも知れないのかなと思うことはあります。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
その主治医の先生が仰るには、内視鏡のカメラを入れるとわかるらしいんですけど、腸壁にどうしても残るものっていうのは口の中の唾液で溶けないものって仰るんですね。なので「溶けるか溶けないかを実験していくとわかるよ」って言われて、本当におもしろいぐらいそれが当たっていて、意外とステーキとか焼肉とかって溶けるから大丈夫なんですよ。でも、むしろヘルシーといわれている野菜とか、ある意味おそばとか、そういうのは絶対溶けないので腸壁に残っちゃうんですよね。だからそういうものは逆に食べないほうがいいんだっていうことがわかりました。でも病院に入っちゃうとどうしてもうどんが出てきたりするので、いいんだと思って食べがちなんですけど、意外とそれが腸閉塞を引き起こすんだ、ゼリーとかもそうだったんですけど、ダメなんだって。寒天系ですよね、そういうのも実はいけないっていうのがわかり、むしろそれだったらチョコレートとかチーズとかアイスクリームとか、そういうほうがいいんだよっていう。その先生のアドバイスから私もいろいろ食を実験、まあこの病気の人はみんなそうだと思うんですけど、本当にマニュアル通りではなくそれぞれ体感が違うので自分で実験していくと思うんですけど、私もその後はそうやって先生に言われて“溶ける・溶けない”をいつも考えて食べるようにしていたら本当に腸閉塞にはならないし、腸閉塞もすっかり治ってしまったし快適なので、「ああ、これは一理あるんだな」と思って、いい勉強になったなとは思います。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
Q:その好転した理由っていうのはわかっているのですか。
やっぱりケアが違いましたね。そこでは一切手術ももちろんしなかったですけど、私が運ばれた時っていうのは、もう肛門の穴がシャーペンの芯が入らないぐらいふさがってしまっていて、そこがふさがったら死んでしまうので、その状態でその町医者に行ったんですよ。そうしたらその先生はその状態を診ても、再度人工肛門を作る必要もないし他に方法はあるからって、希望をすごく持たせてくださって。それで救急病院を紹介してくださって、そこに行ったらそこの先生も正直私の状態を診てびっくりして、「これで手術したのか?」っていう感じだったんですよね。でもそんなことを言っている時間もなかったので、後から聞いたんですけど、シャーペンの芯が入らないので内視鏡のカメラも入らない状態なのですけど、ここがもう本当に私も感動したんですけど、5人の男のドクターが自分たちの指で私の肛門をこじ開けてくれたっていう、それで命拾いをしたっていうのは後から聞いたんですけど。そこで、どんなに設備が調っている病院だとか、IBDをすごく研究しているという大学病院だからって治せるものではなくて、やっぱり個人個人のドクターの気持ちっていうか、患者さんにどこまで寄り添った治療をしてくださるかによって、こうも奇跡が起こせるんだっていうのを目の当たりにした瞬間でしただったというか……。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
その後ももう本当によくなくて、術後が。もう「手術をしたら食べられるようにもなるし、普通の生活が送れますよ」っていう話だったんですけど、手術をしたことによってむしろ病院から出られなくなるぐらいの状態に陥ってしまって、その2006年の1回目の手術から2009年までは、私はもう入退院、手術の繰り返しでしたね。ただ、やっぱり病院も手の施しようがないので、ベッドの状況もあるから「出てくれ、出てくれ」だったので退院はさせられるんですけど、絶飲食状態なのでなかなか家で点滴ってわけにもいかないので、救急車で何度も何度も運ばれました。それでもやっぱりベッドが空かないからということで、すぐ帰されるという状況がずっと続いていて、まあ正直ちょっと家からその行っていた大学病院が遠かったので、高速飛ばして救急車に乗っても40分かかる所だったので、その生活がもうずっと続いたのですね。で、ほとほと、私はもちろんですけれど家族もやっぱりもうそれは大変だったので、そこの大学病院でオペはしましたけど、術後のケアはあまりにもそういう状態でよくなかったので、もう死にそうだったので(笑)、
たまたま近所の町医者なのですけど、近所に消化器外科ができたんですよね。で、そこに這って行ったというか、そうしたらそこの先生がこその状態を診てびっくりして、それで別の病院を紹介してくださって、そこから劇的に好転しましたね。「あの3年間は何だったんだろう」っていうぐらい。
診断時33歳、インタビュー時45歳(2015年6月)関東地方在住
3年間内科治療を続けたが寛解に至らず全摘手術を行ったが、術後の経過が悪く長い間苦しんだ。ようやく手術したのとは別の病院でメンタル面も含めて適切な処置をしてもらえて、今では普通の社会生活が送れるようになった。家族は母親と二人暮らし。
トイレの回数がちょっと多くて、そのたびに便が出るみたいな感じが続いていたのですね。痛みとかは特になかったのであまり気にしていなかったのですけど、ある時そこに血が混じっていることに気がついて、血便っていうのはちょっとびっくりだったので大学病院に行って、一応初めて大腸内視鏡カメラっていうのを入れさせてもらったのですけど、その時には特に異常はなくて、先生にも「何でもないよ、問題ないよ」とは言われていたのです。
ただ、その時からなぜかペンタサを飲まされていて、でも私にはその病気ではないと仰っていたのですね。なので私は信じてそれを飲んでいたのですけれど、半年後またひどい出血をしたので、その時はその大学病院に行く余裕がなかったので近所の病院に行ったら「もう明らかに潰瘍性大腸炎だよ」っていうことを言われて、もう一転してしまったというか、役所とかにもいろいろ手続きに行かなきゃいけなくなったり、今後のことも含めて「悪くなることはあるけど良くなることはないから、入院施設の調った病院に行ったほうがいいよ」と言われ、また別の大学病院の消化器内科に通うことにしました。そこからがもうずっとこの病気との付き合いになったのですけど、私の場合は寛解期というのが一度も来ず、ずっと劇症というか、ひどくなる一方だったのですね。